野間宏は、戦後派を代表する作家の1人です。「暗い絵」など、短編も印象に残ってますけれど、やはり長編の作家という感じがしますね。
『青年の環』という巨編があります。岩波文庫で800~900ページ×5巻という大長編です。このボリュームは、なかなか読めませんよ。ぼくも読みかけたことは何度かあったんですが、読み通したことはまだないです。
この『青年の環』がもう長いこと本棚からぼくをじ~っと見つめ続けています。いい機会なので、来月辺りに挑戦してやろうと思ってます。読破できるかちょっと自信はないんですけど、乞うご期待です。
まず前置きとして、戦後派の作家について少し書きますね。
夏目漱石や森鷗外など、明治の作家はまだかなり読まれていると思うんです。現代の小説と比べるとあれですが、日本文学史の中では相当読まれている方です。
ところが、戦後派となると、今はほとんど読まれていません。そもそもこの『真空地帯』自体が絶版なわけですから。読まれているとしたら、大岡昇平の『野火』くらいでしょうか。
三島由紀夫は人気がありますけども、戦後派にカウントされることがあるとはいえ、戦争をテーマとして抱え込んだ作家ではないですよね。
椎名麟三、梅崎春生、島尾敏雄など、文体として今なお斬新なものがあり、内容やテーマとして重厚なものを持つ戦後派の作品が、なぜ現在ではほとんど読まれないのでしょう。その理由は明白です。「戦争が描かれているから」その一言に尽きます。
ぼくとしても感覚としては、非常によく分かるんです。内容として「重すぎる」だけではなく、戦争について語ることに、どこかタブーのようなものを感じてしまうんですよね。それはぼくもそうです。
面白いか面白くないかで語れないものが、戦争がテーマになるだけで生まれてしまいます。ただ真面目な顔をしてうつむくしかないような、重々しいものが。「戦争はよくないことだ」以外の意見は口に出せない空気が漂います。
ぼくは日本の戦国時代を舞台にした歴史小説や、『三国志演義』などが好きです。武将同士が戦い、自分が応援している軍が敵軍をやっつけると、拍手喝采します。知恵や策略によってうまくいったものだと、にやにやしながら、「さすがは孔明!」と唸ったりもします。そこに何万もの兵の血が流れてもです。
歴史ものだと娯楽として楽しめるのに、戦争がテーマになると、同じようには楽しめません。また、作品も同じようなテイストで作られてはいません。そこにどんな違いがあるのでしょうか。
簡単に言えば、「他人事としてとらえられるかどうか」だと思います。歴史ものは言わば他人事なんです。兵士は戦うから兵士なわけですし、兵士自身が「なぜ戦わなければならないか?」と自らに問いかけることはありません。兵士はまさに将棋の駒と一緒です。ゲームのキャラクター的存在。
一方、戦争というのは、自ずからぼくらと密接に繋がっていて、他人事にはなりません。兵士もまた、将棋の駒と同じような血の通わない存在ではないんですね。
そもそも一般人が徴兵されたものであって、職業的軍人ではないわけですから、「なぜ戦わなければならないか?」「自分はなんのために生きているのか?」という、自分の存在を問いかけ続けることになります。
ここまでで、いくつかの論点が浮かび上がってきたと思います。まとめると、(1)戦争は重いテーマであり、「戦争はよくない」以外の意見を封殺するような側面を持つ。(2)戦争を描いたものでは、兵士は単なる駒ではなく、戦争そのものや、自己の存在について問いかけ続ける存在である。という2点になるかと思います。
そこから戦後派文学の魅力というか、読むべき理由が出てきます。
戦争を知らない世代が、平和な時代から戦争を振り返ると、お涙頂戴というか、「戦争はよくない」というすっきりしたテーゼで作品が作られがちです。
ところが、戦後派文学はそうしたすっきりした明確なテーゼの下に書かれていません。戦争は、もっと衝撃が冷めやらない、とらえきれない不気味ななにかとして描かれます。それはすっきりしたテーゼで簡単に消化できるような問題ではないんです。
「戦争はよくない」と口で言うのは簡単です。しかし、ぼくらが一兵士として実際に現場にいたら、なにができるでしょうか? そう考えた時に、兵士になってしまった普通の男の問いかけ続ける存在論的なテーマは、決して他人事ではなく、ぼくらの人生をも揺さぶるような力を持ってきます。
単純ではない、もっとごちゃごちゃしたものが、戦後派文学では描かれているんです。たしかに文体、テーマともに重厚な作品が多いですが、読む価値は多いにありますし、娯楽とはまた違った意味で、面白い作品がたくさんあります。
そして、一口に時代劇と言っても裁判ものや市井の人情話など、その中で様々なジャンルがあるように、戦争を舞台にした小説と言っても、色々なものがあります。
『真空地帯』は、兵隊の生活が描かれますが、実際の戦いは描かれません。兵隊の生活の中で起こった事件が作品の中心になります。さながら法廷ミステリのような小説です。そう聞くと、ちょっと興味がわいてはきませんか?
作品のあらすじ
こんな書き出しで始まります。
木谷上等兵が二年の刑を終って陸軍刑務所から自分の中隊にかえってきたとき、部隊の様子は彼が部隊本部経理室の使役兵として勤務中に逮捕され憲兵につれられて師団司令部軍法会議に向ったときとは全く変ってしまっていた。(4ページ)
木谷という兵士が、陸軍の刑務所から出てきた所から物語は始まります。帰って来ると、兵士や部隊の雰囲気が変わっているんですね。
木谷は、どうやら窃盗の罪で捕まっていたようですが、あまり多くを語りたがりません。周りの兵隊は、木谷は病院から帰って来たものだと思います。
物語はこの木谷と、もう1人、曾田一等兵が中心になって描かれていきます。どちらが主人公ということもなく、交互に入れ替わりつつ書かれる感じです。
曾田にとっては、謎めいた木谷が部隊にやって来たということになります。曾田は事務室要員で、外出が許可されるかどうなるなど、情報を持っているので、階級よりも一目置かれる立場です。
ただ、曾田は「自分より階級の上のものが自分に近づいてくるとき、いつも気が重くなった。彼等は彼のなかからいつも何かを奪うのだ」(上、71ページ)というような、苦しみを感じてもいます。
曾田は木谷が気にかかり、事務室の資料などを使い、木谷の起こした事件のことをひそかに調べ始めます。謄写版ずりの文章にはこう書かれていました。
林中尉は立哨中の木谷に型通り質問し一応勤務をすませてから衛兵所の裏の便所にはいっていた。その間に便所の横の杭の上にひっかけてあった上衣のなかから金入れがぬすまれたのである。(上、125ページ)
やがて曾田は、打ち解けるという感じでもないんですが、木谷と話すようになり、木谷の話も聞くことになります。木谷が言うには、財布は盗んだのではなく、拾ったものだというんですね。
木谷は、山海楼という所の花枝と関係がありました。花枝は、要するに体を売る女性です。この花枝に会いに行くお金が欲しかった木谷は、拾った財布からお金を抜き取り、それが見つかってしまったというわけです。
盗んだことは否定しているのに、軍法会議では反抗的な思想の持ち主だとされ、あまりにも重い刑を受けた木谷。刑務所でも看守から、暴力などひどい目にあわされます。屈辱を林中尉への憎しみと花枝に対する執着に変えて、耐え忍んできた木谷。
花枝は店を変えたのか、どこへ行ったのか現在では行方が分かりません。軍法会議では、不利なことを言ったらしい花枝を、信頼できるかできないか揺れながらも、木谷は肉欲的に惹かれ続けます。時おり官能的なイメージで思い出すんですね。
曾田は任務で木谷の肉親に会いに行ったついでに、こっそり実家に寄ります。そこでは母親や許嫁の時子から、一等兵から上等兵になれないことをやんわりと責められます。ところが、曾田はそういう出世欲のようなものはないんですね。どこかクールな感じです。
母親が出かけた時に、曾田と時子は関係を持つんですが、2人の間には決して埋められない距離があります。こんな風に書かれています。やや長いですが、引用しますね。
愛などというものはそこにはない。そのようなものは勿論なくなってしまった。しかしこれも戦場で彼女の知らない多くのことを経験してきたからであろうかという風に時子は考えているようだ。曾田にもそれはわかっているのだ。彼はわけもわからぬ道にふみまよったように、とおくかすかにみえるものを眺めているような眼付で自分をみる時子のことを知っているが、如何に話してみても兵隊というものを女は理解することができないので、時子も理解してくれないと思うのだ。しかしもしも彼がこの時子に真正面から問い詰められたら、彼はいくら自分のうち深く、さらにまた肉の深みまで入りこんでくるものがあっても、その人間が兵隊のなか深くはいり切ることはできないと言ったろう。(下、41ページ)
兵隊の持つ、なんとも悲しい心理だと思います。部隊では、いくつかの事件が起こります。脱走する者が現れたり、何者かが木谷が刑務所がえりだとバラし、噂が広まったり。木谷をめぐる状況が少しずつ変わっていきます。
やがて木谷の前に、激しく憎んでいた林中尉が現れて・・・。
とまあそんなお話です。内心に怒りを溜め込んだ木谷もかなり変わったキャラクターですが、それとは対照的なクールな曾田も印象に残ります。
この2人を中心にして、軍隊を「真空地帯」という特殊な環境として描き、その有様を克明に描き出した作品です。木谷の起こした事件の真相が明らかになる、というほどでもありませんが、後半、物語は大きく動きます。
どうでしょうか。思ったよりも面白そうな感じがしませんか? 単なる「戦争が描かれているだけ」ではなく、そこに潜む人間関係や組織との軋轢が描かれた作品なんです。興味を持った方はぜひ読んでみてください。
『真空地帯』は、ある文学論争を生みました。その論争についてはぼくもまだいかんせん調査不足なので、また別の機会に触れようと思いますが、大西巨人は『真空地帯』の軍隊の描き方に否定的な意見を持ったようです。
その大西巨人が、言わば『真空地帯』のアンチテーゼとして書き上げたのが、文庫本で5冊におよぶ大長編『神聖喜劇』です。興味のある方は、そちらの記事もぜひご覧になってください。
明日は、武田泰淳『ひかりごけ』を紹介します。