旧幕臣の御一新―奥羽の戦争 | 大山格のブログ

大山格のブログ

おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。



 其れからの市中の風説は只だ奥羽の戦争のみの事。其の風説、即ち其の戦争の模様を聞きたがり見たがる人情に投じて現はれたのが、第一に錦画、続いて諸種の新聞雑誌で、中にも勢力のあつたのは岸田吟香氏の「もしほ草」、福地桜痴氏の「江湖新聞」、柳河春三氏?の「中外新聞」、中江兆民氏?の「新聞雑誌」、「内外新聞」、「六合新聞」などであつたと記憶する。(此等の中には前年から発行してゐるもあり。又た新聞と云つても日刊では無い、月に二三回の雑誌である。かの「太政官日誌」、「鎮将府日誌」、「鎮台日誌」なども此頃の発行だと思ふ)が、其の多くは見て来たやうな虚構ばかりを吐いて、会津や脱走が勝つたと書ねば売れぬと云ふので、其の記事には、奥羽軍は連戦連勝、今にも江戸へ繰り込むやうな事のみ書いてゐた。現に尤も失笑すべきは。九月の廿四日には会津は既に落城してゐる。其れを何雑誌だか名は忘れたが、其の前後の発行のものに、「会兵既に日光を占領して宇都宮に及び、其の先鋒は近日長駆して草加越ヶ谷まで来ると云ふ、既に其の先触もあつた。」と云ふやうな事が載せてあつたのを覚えて居る。彼の日清戦役の時、我軍既に田庄台近くまで進んだ際、滬報だか申報だかに、「黄海の大戦に日艦孑遺無し」と云ふやうな標目を置いて、我が艦隊の悉く撃沈されて幾んど全滅といふ如き画を画いたり。又た「賊帥謝罪」とかいふ字の下に、大鳥公使と其他誰やらかが李鴻章の案前に降を乞ふの図を出したりして得々たる体裁で居たのを、日報社の編輯局で衆皆が見て、且つ驚き且つ憫み且つ笑つたから。私は、「いや然う高い声では笑へない、今から廿余年前には日本の新聞にも恁う云ふ事があつた」と云つて、右の会桑長躯の話をしたら。皆も其頃の日本の文筆の無責任なのに呆れた。

*****

 マスコミの報道姿勢は現在も御同様ですね。ということは、新聞というメディアの草創期から"事実"の報道という理念は置き去りにされたままなのです。
 その一方で、新政府が自ら発行した「太政官日誌」、「鎮将府日誌」、「鎮台日誌」などは、かなり都合の悪い事実も報道していました。もとより商売っ気がなくて発行したものですから、目的は"風説"を否定することでした。なので必然的に"事実"を報道する方向へ進みました。また、意外にも、まったく政治宣伝の臭いを感じさせません。
 これら新政府の刊行物と、デタラメな民間の刊行物を読み比べるのは面白いですよ。


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ