浄土教2(念仏2)「2」/消息/i | 獨と玖人の舌先三寸

浄土教2(念仏2)「2」/消息/i

「1」より継続。キャパオーバーにてm(_ _)m


◎一遍――
1239~1289年。時宗開祖。
建長3(1251)年、大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(しょうたつ)の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学びます。この時の法名は智真(ちしん)です。
文永8(1271)年32歳以降、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行します。
文永11(1274)年、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始めます。
紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否されたため、悩み落ち込みます。それから参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身(すいじゃくしん)とされる熊野権現が夢の中に現れ、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受けました。
この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加しました。これをのちに、神勅相承として、時宗開宗の時とします。
その啓示は、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の名号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものでした。
阿弥陀仏の絶対性は“信”すらも不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説きました。晩年には踊念仏を始めます。

平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至ります。


◎蓮如――
親鸞の曾孫である覚如(1270~1351年)が、親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立しました。
時代が下るとともに衰退し、天台宗の青蓮院の末寺にまでなるものの、室町時代に本願寺第8世 蓮如(1415~1499年)によって再興します。浄土真宗本願寺派、中興の祖です。
寛正6(1465)年、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺が破却されます。
文明3(1471)年、北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立しました。
もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域で、急速に教団は拡大していきました。信徒は“門徒”とも呼ばれますが、他宗からは“一向宗”と呼ばれる強大な信徒集団と成ります。“一向”は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持ちます。
蓮如の教えは、「仏教は人々を差別しない。阿弥陀如来を信ずる人は、みな平等に救われる。」と説き、“同朋精神(弥陀の前では念仏者は全て平等であるという考え)”を強調し、また職業にも関係なく、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、仏の慈悲により現在や未来が明るくなると説きました。
阿弥陀仏の救いを説く蓮如の厳正な宗教家としての態度と、“御文(おふみ)”と呼ばれる、蓮如の教えを分かり易く書き記した“消息(手紙)”の発行による布教方法が、遠くにいる人々にも教えを広めるのに大きな効果がありました。
その教えはわかりやすく、在地の有力者である土豪はもちろん、今まで恵まれない生活をしていた農民や手工業者、行商人にとって、ありがたい教えとなり急速に拡がっていったのです。
帰依した門徒の中には、旧来から阿弥陀信仰を持つ白山天台の信者や時宗など、真宗他派の徒からの転宗者もかなりいたようです。
僧侶など従事者から見れば、宗旨の細かな違いが宗派を作り出し、相互に排斥するようになるところですが、一般大衆から見れば同じ阿弥陀信仰であり、それも以前よりわかりやすく宗旨を説いてくれる指導者と宗派が来たという程度に過ぎなかったと思われます。そして、その教線の全国波及とともに、浄土真宗諸派は本願寺派へとひとたび統合される事ともなりました。
文明15(1483)年、山科本願寺落成。(文明7年~は争乱期。省略。)
延徳元(1489)年、寺務を実如に譲り、山科南殿に隠居して、信證院と号します。
明応5(1496)年9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所としました(のちの石山本願寺。のちの大坂城地)。

※修験道の行者や密教などの僧にも、浄土真宗に宗旨替えし本願寺教団の僧となった者たちが多くいました。
その者たちの一部に、浄土真宗と他宗の教義を複雑に混合し、浄土真宗の教義には無い“呪術”や“祈祷”など、必ずしも専修とは言えない民間信仰が行われていました。

※加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆の首謀者説。
・門内、他派のみならず、加賀守護 富樫氏と戦争、また別途、越前守護 朝倉氏とも戦争。一揆の勝利もあり、加賀国が宗教門徒のものとなるような事態となった時期があり、諸大名は争わず共存を図っています。
・本願寺はのちに、関東管領 不識庵謙信、さらに参議 織田信長(実行者は佐久間盛政。前田利家説。)に鎮静・鎮圧、弾圧されています。
織田信長は徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させました(本願寺第十一世 顕如。教団最盛期。)。
のち、太政大臣 豊臣秀吉の介入による宗主継承問題(1590年代前半)を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立しました(1602年)。
・浄土真宗本願寺派は、宗祖 親鸞以来嗣子相続が続いており、12代より東西の区別がついています。

※蓮如は、信者が集まって話し合う場を「講」といい、さらにそれが大きくなり集会場として設けられた特別の場を「道場」と呼びました。
道場がさらに大きくなると、本願寺の許しを得て「寺」となります。



◎消息――
いま現在、“たより”のことを指します。便り。頼り。手紙のことです。
何かに関する情報そのもの、また知らせてくること。
安否情報や、様子のこと。
時が移り変わること、時々のありさま。

陰陽では、消息とは、陰気のなくなること、陽気の生じることを表します。そのまま、消えることと生じること。衰えることと盛んになることを意味します。このことから、動静、状況、事情を含む意味になりました。










後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに 世渡る僧と なるぞ悲しき――
まことの求道者となり給へ。

前述、源信大師の母上が、師の名利を諫めようと書かれた和歌。










「後の世」を俗に。「求道者」とは大仰だが。「僧」を置き換えて。名利はまあ、否定しない。
斯く言う――
君、独りでも立っていられるよう、其は智慧を講じ致し候へども。日々の其の一歩を知る由は最早なく候う┌(_ _)┐
かつて曰く、至誠心にて――