流山の富士塚――官軍陣跡? | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 流山の富士塚は、近藤勇が宿所とした永岡三郎兵衛の酒蔵から、ほんの100メートルも離れていない近所の浅間神社の境内にあります。なかなかの大きさではありますが、社殿の背後にあるので見落としがちです。


 言い伝えだと、近藤勇を捕らえに来た新政府軍が富士塚に陣を布いたといわれます。ただし、以前にも御紹介した『流山町誌』(大正9年)によると、築造は明治24~25年にかけてのことです。タイムスリップでも起きなければ、慶応4年=明治元年に登れるわけがありません。

 富士山を信仰の対象とする浅間神社は各地にあって、富士塚と呼ばれるマウンドが設けられるのは珍しいことではありません。しかし、浅間神社にあるマウンドが富士山を模して築造されたものとは限りません。
 その地から直接に富士山を見ることが出来るなら、遠くからでも本物を拝もうというので築造される場合もあるのです。その場合は富士山を模したものではないですから、それ自体を拝むということはありません。単なる踏み台として、その上から遙か遠くの富士山を拝みます。ですので、そういうマウンドは遙拝所であって、厳密な意味では富士塚と呼べません。


 流山の浅間神社の場合は、まさしく富士塚です。頂上には「富士浅間大神」と刻まれた大きな石碑がありました。これを富士山だと思って拝もうという寸法ですから、このマウンドこそが拝礼の対象になったのです。

 いろいろ謎がありまして、各地で富士講という信仰グループが形成された流行のピークが過ぎた維新後になってから築造されていることや、山頂の石碑の銘が明治19年になっていたりします。ということは、まず石碑が出来て、5年もたってから富士塚を築造しようという話になったわけです。いったい、なぜ?

 流山が繁栄したのは河川交通があってのことです。維新後の明治10年には江戸川を外輪蒸気船が走るようになって、ますます人口が増えました。さらに明治23年には利根運河が開通したことで、流山の旦那衆は更に豊かになったことでしょう。有り余る富の力があれば、富士塚くらいは出来ても不思議ではありません。

 運河開通以前は、利根川の布施河岸で下ろした荷物を陸路で流山へ運び、流山から再び舟に載せて運ぶ荷物も多かったのですが、それが荷を載せたままでよくなったので、たいへん便利になったわけです。
 荷の積み卸しをする荷役作業に従事する人々にとっては仕事が減りそうなものですが、むしろ荷扱い量は増加しています。便利になれば利用も増え、利用が増えれば運び賃も安くなり、また利用が増える……という具合でしょうね。

 不思議といえば、流山には舟運を専業とする河岸問屋が見当たりません。よその河岸には荷扱い専業で巨財を築いた人はざらにいるのですから不思議です。もしかすると流山は醸造業が盛んだったせいかもしれません。酒の原料であるコメは重いし、それでつくった酒はなおさら重いので、河岸でもなければ商売しづらいのです。だとすると、近隣の産物を集積して江戸へ出荷するという問屋のような業態よりも、醸造と兼業でもした方が稼げたのでしょう。


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