旧幕臣の御一新―朋友の討死 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。



 私の朋友の討死したのも五六人はある。其中で最も親しくしたのは、京都見廻組みの島田民吉(文政時代の画家鈴木南嶺の孫にあたる人)、関屋与次兵衛、大野金三郎などの人々で、此等は皆山崎で藤堂が裏切の際に討れた。その他にも歩兵奉行?の窪田備前守――其父治部右衛門氏は私の父苔園の柔術の師匠、その因で私も備州が泉太郎と云はれた頃、知つて居る。之も討死された。其等も残念だが、其よりも此の大敗と云ふが実に残念で〳〵、居ても起ても堪らない。いづれ再度の盛返しの戦争は是非有る事!其時こそは!と銃を磨き、弾薬の用意をして、刀に引肌まで掛けて、今日か、明日か。と其の沙汰を待て居たところが、二月になると上様は上野に御謹慎!戦争は無い。といふ事に決つた。弔戦をしないで如何するか。此儘敵に降参か、其な事が出来るもんか。有るもんか!と只だ無暗に逸るのは私共ぐらゐの年恰好の者のいづれも口にする議論。剣術の師匠へ行つても、柔術の稽古場へ行つても皆な那麼事ばかり。泣くのも有れば罵るのも有る。其の中に官軍は追々繰り込む。開城となる。最う為様が無いと云ふので、或る者は其の前後に脱走する。或る者は又た上野に拠る。此等の始末は人も熟く知てゐること、当時の書物にも記いてあるから仔細くは述べぬが。唯だ此際の江戸市中は、商売もなく、交通もなく、闇夜の如くであつたらうとも思はれやうが、其れが然うで無い。依然繁盛は繁盛の都会の大江戸であつたから、寧ろ好笑しい。

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 窪田備前守鎮章は第12連隊長で、開戦時に前衛が崩れ立ったのを立て直すべく奮戦した人。その勇戦敢闘ぶりは、いくつかの史料に伝わっています。
 刀の引肌とは、鞘を包む筒状の保護具で、たいていはシボ皮で出来ています。シボ皮がヒキガエルの肌みたいに見えるので、はじめは蟇肌と書いたようです。鞘に保護具を装着することは、いつでも遠征に出られるようにしたことを意味します。
 前回掲載分とは異なり、今回は主観的な内容になっています。まるでカメラを切り替えたかのような視点の移動が、話にメリハリをつけています。


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