旧幕臣の御一新―鳥羽伏見の大戦争 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。






 正月になつても市中その外、表面は賑かで、礼者も来る、獅子も来る、鳥追も万歳も来る。明けましては御慶の年賀に、謂ゆる初春の気分は内外に漂よつて、初東風のさ〻やきを門松の注縄に聞きつ〻、元日から二日三日と過ぎたが。焉んぞ知らむ。此時は是れで、徳川氏三百年の基礎の転覆に瀕める際ならんとは!然し電信も鉄道も無い当時、いかな早追でも江戸大阪間昼夜二日半で無ければ通ぜぬといふ時節であるから、此れ程の大事件をも人は太平の屠蘇の酔夢。前将軍家の御供に立つて京阪に居る人々の留守宅でも「可嫌な話(慶喜公の御辞職以来、上方の紛糾する話)ばかりで困ります、宅でも早く帰つて来てくれますれば好うございますが。」位なもので、依然例年の雑煮も祝つて、二日の初夢に気楽な宝船も買つてゐた。
 処が、十二日の夜であつた。私は其頃大久保の十騎組(今の富久町)の内藤といふ人に英学の句読を授つて、此夜も其処で稽古を終つて、恰ど宵の戌刻過ぎごろ、谷町から念仏坂、三軒家といふ所まで来ると。薄月夜に手丸(提灯)を点けて、「直さんか?」と慌てた声で呼留めた人がある。(私は其頃直太郎と称つた)「誰!」と見ると、其れは松岡万(新選組の世話役かをして、私の父の旧同僚内海氏の甥。此人は平山行蔵子の風を慕つて奇行に富んだ人)といふ人、声も容子も非常に何か迫立つてゐる。什麼したのかと訊くと。「いや実に大変です。京都は大戦争。敵は薩長で。御味方大敗走!上(慶喜公)にも昨夜蒸気船で御帰城です。内海の伯父なども討死したか何か知れません(内海氏は当時京都の見廻組)。私は今其事を知らせて来ました。貴方も最う御覚悟なさい!」と真に血眼でゐる。
 聞かされた私も、実に仰天した。何が何やら夢のやうに、身ばかり戦慄へた。「貴君は何う為さる?」「私は此れから隊中を集めて御沙汰次第に出張します!」と云つて、一寸黙って、「此から高橋勢州の家へ行く」と言つたかのやうに記憶てゐるが、其儘で氏は駈ける如くに去つて了つた。
 私も、前の薩邸焼討以来、この結局は什麼落着もの歟と、心暗に心配してゐた。すると八日か九日頃から「京都で戦争が開始た」と云ふやうな風説。――其れは真に風のやうな説なので、誰が言ふとも無くちら〳〵と聞えたが(恁う云ふ説は、多く御城の御坊主から漏泄たもの)。固より取留めた話でもなく。然し容易ならぬ事と思つたから、然るべき人の処へ行て問合しても見たが、孰れも判然とした事は判らぬ。(此時或る家で、慶喜公が薩長弾劾の奏聞の写書といふものを見た。然し此の時分には斯様な種類の贋物といふも多かつたから、私も半信半疑で見た。)只だ日増に其の風説は高まるばかり、すると此日(十二日)の昼頃であつた、下男の老僕が何処から聞いたか、「昨夜親玉(慶喜公)は御帰城になつたと云ふつけ。」と下女に話すと、下女は又たこれを母に告げ、母は更に私に話して「直、何うお思ひだ?」と問れたから、私は「其様事はありますまい。那麼な理由が……。」と虚説にして了つて置たのが、松岡氏に恁う仔細く、確かに聞かされたのであるから、唯だ最う夢心地に、宅へ飛帰つて、「御母様、恁様ですと!」と次第を語ると。母は聞くなり忽ち涙をはら〳〵と零した。私の母は恐ろしい勝気な人で、幕府の事を悪くでも云ふと泣て怒つた人、謂ゆる非常な「権現様贔屓」なるもので有つた。で、此の前後の模様は、私が前年描いた小説『脱走兵』(博文館刊行の渋柿叢書の中)にも粗記してある。芝居でも演たから或は御承知の方もあらうが。あの編中の人物は、名前は仮設だが、事実は確かにあつたのである。
 然し、「上様の御帰城」といふ事は、其の二三日の後までも、信疑相半ばする説として世間の耳には聞かれて居た。幕兵大敗北の話も同様で、「ナニ関東は勝たので。先鋒は京都を取つたが、尚だ御人数が足りないので、上様は其の後勢を御召連に御仲帰りになつたのだと……。」「勝負は善く判らぬが、上様はたゞ薩長の兵は好く働くと云つて被為居る……。」「御奥へ御入りの限り、御表へも出御が無いさうだ―が―こりや怪しいぜ?」十六七日頃までは尚だ恁麼事を云ひ合つて、誰人も五里霧中に在た。今考へて見ると余り馬鹿げた、幼稚らしい詮議ではあるもの〻、負ても勝たと云ひたがる人情と、秘密と疑惑とで支配されてゐる人心と、事実の真相を知る器械のない当時に於ては、此の馬鹿さ加減も是非もないものとして御覧下さい。然して実際の戦況と云ふもの〻知れ亘つたのは、紀州其外から落武者の帰つて来た二十日過の事、扨て其からの騒動と云ふものは実に大変!

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 さすがは小説家だけあって流言飛語でかき乱される江戸の人心の有り様を、臨場感たっぷりに伝えつつ、巧みに世相を描き出しています。
 当事者でありながら塚原の視点は冷静です。もちろん若者らしく血気にはやる一面も持ち合わせていたのでしょうが、壮年期を過ぎて老境に達したときには、自分の記憶を客観視できるものなのでしょう。
 目を惹かれたのは通達に贋物が多かったという部分です。厳しく取り締まらないと、いざ本物の通達を出したときに信用されなくなります。それまでの幕府であれば、贋の通達など出した者は、きっと死罪になったことでしょう。この非常時に、あえてそれをやる者が多くいたならば、それは"上様"の通達に背く者も少なくなかったということでしょう。
 なお、本文で塚原が言及している小説『脱走兵』は近代デジタルライブラリーに収録されています。コチラからどうぞ。


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