桜咲く。

福岡は桜の開花宣言が出され、いたる所で春が色濃くなって来ています。街に待ったはる到来です。

選抜甲子園では熱い戦いが繰り広げられプロ野球シーズンもまもなく開幕。2014年の野球シーズンが始まりますね。そして、新社会人に新入生。沢山の人たちが人生のスタートラインに立つ心躍る季節ですね。

そんな旅立ちのシーズンに、いつもブログを読んで下さっている大切なファンの皆さんへご報告です。

この度、私、小林亮寛はプロ野球人生からリタイアすることを決意しました。

1998年に千葉ロッテマリンズに入団してから16年。6カ国9球団に選手、打撃投手として表だけでなく裏から、日本国ないから、そして海外から野球を感じ「野球道」を歩ばせて頂くことが出来ました。子どもの頃からチームや指導者の方々に恵まれ、「忍耐」「努力」「鍛錬」「礼節」「感謝」「成長」多くの学びを野球から貰って来ました。
高校卒業後直ぐにプロ入りし、独特の大人の世界に翻弄され挫折も経験しました。世界中を渡り歩き、色んな経験をして来た今だから良く分かりますが、よく言えば純粋、悪く言えば子ども。未熟でした。
その頃の僕は最下位球団、高卒、ドラフト下位指名選手。僕は底辺の底辺に位置していた訳でから若さや立場を考えれば、どんな手を使ってでも這い上がり、生き残らなければならないそんな立場だったんですね。でも、その行動が出来なかった。後悔があるとしたら間違いなくこの頃の自分です。

「人はその時々でふさわしい試練に恵まれ成長していくもの」

まぁ、それだけ真っ直ぐで一生懸命だったからこそ挫折を味わったんですね。時には挫折を感じる真っ直ぐさも大切だと思います。そして、そんな挫折を味わったあとも立ち上がることを諦めなかったら今があることのだと思います。
僕にとって野球は「家族」です。どんな時も野球そのものの存在が人生の道標。

時には父親の様に厳しく寛大で、
時には母親の様に優しく学びがあり
兄弟の様に競い合いながら成長できます。
そして妻の様に人生の意味を共に紐解いていく存在で
子どもの様に愛情を持って育てていかなければならないもの。

自分の成長の過程や環境の変化によって関わり方が大きく変わりますが、それも家族との関わり方とよく似ています。世界中には沢山の家族があり、色んなかたちの家族があります。国や人種が違っても、内縁であっても愛があればそれは家族です。家族それぞれのカタチや幸せが一つでない様に、僕にとっての野球も同じでした。
現代の日本にはプロ野球、アマチュア野球と言う区別分けが存在します。社会人野球、クラブチーム、独立リーグ、硬式野球、軟式野球と様々な区別の仕方がありますが、どこに携わっているかで野球人生の幸福度が変わってはいけないのです。海外でプレーする様になってそのことを強く感じる様になりました。元メジャー選手をはじめ色んな国で色んな人種のプレーヤーと「勝利」と言う同じ目標に向かってシーズンを過ごし苦楽を共にしてきました。
日本の野球界とは比べ物にならないほど恵まれない環境でも、その先にある夢や目標の為に
腐ることなく明るく前進しようとする元メジャー選手達の姿に感動しました。彼らはそんな世界にとても慣れていて、「彼らはそんな世界で成長して来たんだなぁ」と感じたものです。

「大切なのはプレーする場所じゃない。生きたい、というハングリーなプライドを持ち続けることだ」

世間的には無名だけど素晴しい選手、素晴しい精神世界を持つ本物のアスリートと出会うことが出来ました。僕の心が大きく響いたのはそんなアスリート達の精神世界。僕はそんな精神野球の虜に成りました。「野球選手のあるべき姿」に「本物」を感じる様になりました。
そんな野球道を歩むなかで日本の野球界に育てられた僕の中の一部の固定観念は良い意味で崩壊していきました。これは「安易な批判」ではなく、物事を等身大の大きさで評価すると言う意味。「リスペクト」です。よく日本でも「リスペクト」と言う意味を耳にしますが「リスペクト」とは本来「過大評価や美化すること」ではなく「そのモノの個性をきちんと理解し好みに関係なく評価すること」です。人に対しても社会に対してもそう言う意味合いの「リスペクト」を持ち続けたいですね。。それぞれのプレーヤーがそれぞれの立ち位置で「リスペクト」されるような野球界であって欲しいと思います。そういう野球界を我々大人が子供たちの為に創造していかなければならないですね。世界には日本とは違う野球があり、逆に日本の野球が世界の中でも特殊なのだと気付きました。日本野球の成り立ちや背景について勉強するようになり、知らなかった日本の野球が持つ魅力を知りました。大切なのは野球に携わる者すべてが幸せになることではないでしょうか。特にプレーしている者が不幸になる野球は絶対に残してはいけない、と。親が子に幸せを残してあげたいと思うことと同じです。

そしてもう一つ。大切なことも知ることとなりました。家族にはそれぞれ命があり、別れがあります。子どもが生まれ家族が増える様に、愛する者との別れがあります。私たちはその別れの時がくる一瞬まで家族を懸命に愛すでしょう。「永遠」ではないから「ささやかな今」を懸命に生きなければならないのです。野球と自分との関係がそう、家族の様に感じるようになると「選手」として携われるこの野球人生の貴い時間を懸命に生きたいと思うようになりました。だから、諦めらめる?諦めない?出来る?出来ない?そんな基準で人生の大切な選択を決めることはしませんでした。自らの意思で生きることを諦める、そのことだけは、けしてしない様、野球人生との別れがくるその時まで懸命に生きてきました。

「諦めることもたいせつだよ」、「諦めるのは簡単だ」。そう言われることもよくありました。そう思う人はそれで良いんだと思います。それがその人の幸せの基準なのでしょうから。でも、、、僕にはそれが「家族と引き離されるような感覚」と似ていて「何だか違うなぁ…」と。高校生から20代前半の若い時期はそんなことが何度かありその大切さは誰よりも知っていたんだと思います。

一生懸命野球と向き合い、人生と向き合い生きれば生きるほど多くの人が「共に生きよう」と力を貸してくれました。人生に同じ価値観を持っている人たちが沢山いることを知り
仲間が増え、彼らは僕の勇気となりました。(ブログを読んで下さったりコメントを下さった皆さんもその仲間ですよ)
ここ数年は、そんな人達との縁を大切にしたいと言う思いが強くありました。
使命感のような——。
自分の仕事を支えてくれる人たち。僕が活躍することでその人達の仕事が素晴らしいことを証明したい。自分が頑張ればその人達の仕事の評価や質も上がる。経験は自分のために。結果は支えてくれる人のために。そんな思いでした。だから「諦める」ということはそんな人たちと一緒に積み上げてきた仕事までも放棄してしまうようで、、、簡単ではないんです。大切な取引先がいるのに「もうやめます」なんて、、、簡単に言えないですよね。

初めて海外に出て現役復帰したのは25歳の春。中日ドラゴンズで打撃投手として3年間在籍し退団した翌春のことです。始めは不安も沢山ありました。いや、不安だけしかなかったような、、、。それでも「自分の人生なのだから、自分の想いに素直に行動しよう」と、シンプルな動機は持っていました。2005年シーズン終了後、当時僕の周りにはプロ野球界を離れてから海外に出るなんてそんなことをしている人はおらず、相談もできませんでした。日本での実績がゼロの僕にエージェントが力を貸してくれる訳もなく、ブランクはある、コネクションがない。毎日、不安だらけでした。
さらに、当時は日本の独立リーグでは元NPB選手との契約は許可されてなく、社会人野球入り(アマチュア登録)すればNPBとは2年間、契約が出来ないと言うルールがありました。現役アスリートにとってこの「2年間」はとてつもなく長い時間です。もはや選手に引退を暗示させるようなルールです。僕に残された道はアメリカ。そこしかありませんでした。少しでも時代が違っていたら日本の独立リーグに落ち着いていたかも知れません。だとすると、こんな経験も出来なかったのかと思うとこれも必然だったんでしょう。

初の海外でのシーズンはとてもとても大変なものでした。食事のこと、コンディショニングやケアのこと、コミュニケーションのこと。99%、「投げること」以外の作業がとてもとても難題でした。それでも、やるしかないのです。あらゆるアイデアを繰り返し繰り返し検証することでスキルを成長させ「野球選手として生き残る術」を学んでいきました。生き残るためには理屈を並べるよりも実行する。理屈は後からついて来る、そんなサバイバルの毎日でした。毎日ように選手がリリース(解雇)され新入団選手がやって来る。「外国人選手」と言う立場に成ると調子を崩せば「次の外国人選手」がやってくる。新外国人選手の前前で最終テストなる登板をするのです。プレッシャーもありましたが、これが僕の求めていた野球の世界でした。それなら自分も、誰かのプレッシャーに成らなければならない、そう考えるようになりました。

ロッテ時代の5年間は2軍で78試合約180イニング。退団後海外での8年間で176試合 603イニングを投げてきました。日本での記録に残ることはありませんが間違いなく僕の歴史で、大切な仲間と一緒に戦ってきた軌跡です。

「このマウンドで失敗したら野球人生が終わる」
「このマウンドが最後になっても後悔しない様に自分らしく戦おう」

マウンドに上がる前には胸に手を当てそう誓って投げるよようになりました。603イニング。全てのマウンドに上がる前に祈り続け、覚悟を決めてきました。自分の心の中にある思いを強く信じて真っ直ぐに進む。そうすれば一人…また一人と同じ志しを持つ人たちに出会う。僕が野球から得た教訓です。

「奇跡とは人と人との繋がりの中から生まれる」

オープン戦を生き残り開幕戦のフィールドラインで聞いたアメリカとカナダの国家斉唱。あれは鳥肌が立つほど嬉しかったです。あの瞬間は人生で最高の瞬間。一生忘れられません。現役復帰の開幕戦は、人生で初めてそう感じた瞬間でした。何よりも、「行動しなければ何も始まらない」。確信を得たものです。理論物理学者のアルベルト アインシュタインは言いました。

『 成功者に成ろうとするのではなく 価値のある人間になろうとしなさい 』

カナダでで静かに現役復帰を果たしたあの時から「価値のある人生」を生きることを心に決めました。人のために、と自分を殺していた頃もありましたがその頃はたいして人のためにも成れなかった。だけど「自信を持って自分らしく生きる」と自分の仕事を評価し必要としてくれる人たちと繋がった。自分が本能的に感じている自分の武器を使うと「役割」が生まれるんだと解りました。誰かのために仕事をする本当の意味を知ることになりました。やりたいこと、やれること、やるべきことがリンクしたそんな仕事は本当に素晴らしいと思います。


恥ずかしながら 僕は BaseBall Artist と自称しています(笑)これは「人生は芸術である」というPL教の教えに基づくものでもあります。
野球はスポーツです。勝敗を競うものですから勝つことが大切なのは性質と言うもの。勝たなくていいチーム、は一つもありません。その為にみんなあらゆる努力をしているのです。だけど、、、「それだけ」では魅力的なチームではないのです。「それだけ」では価値ある野球とは感じないものなのです。利益を上げなくて良い仕事、は存在しないのです。
だけど「それだけ」では、、、。結果だけにこだわってしまうこの二つには「得ること」しかありません。芸術は何かを得る為に創造されるものではなく「与えること」のためにあります。多くのメッセージなど何かを与える為、残す為に創造されているのです。僕は妻の影響で芸術に触れる機会が多くなり、野球も人生も同じだと考えるようになりました。そこで「野球」を通じて人や社会に勇気や元気、何かメッセージを与えることのできる仕事をしたいと感じ「ベースボールアーティスト」と称する様になりました。正直、恥ずかしい。だけど誰かがやらなきゃって、最初は勢いで。そしたら共感してくれる人たちが結構いるんですね。同じような価値観に共感し、自分の人生や仕事を魅力的なモノにしようとする人たちが増えて来ました。僕の周りにはそんなアーティスティックな感性を持って仕事をする人たちが沢山いていつも感化されています。スポーツとして勝つ為に努力すること、仕事として利益を上げることは当然ですが、野球界や社会の為にメッセージを残すことは出来ないだろうか。自分の海外での野球生活を通して「野球の世界」「世界の野球」を広めることで救われる人たちがいるのではないかと思うようになりました。まぁ、その誰かって言うのは固定観念や常識ばかりにとらわれていた「あの頃の自分」なんですが。

海外に出るともっともっと、同じ思いで海外に出てくる野球選手達に出会いました。「日本人選手はなぜもっと海外に出ていかないんだ?」と言われる事の方が多いくらいです。「野球選手の仕事に国境はない」とそれがワールドスタンダードです。打撃投手として一度は現役から離れることもありましたが業務の前後にトレーニングをしたり、深夜のジムに通ったり、これまで諦めようと思ったことは一度もありません。「諦めずにどこまで行けるだろうか」誰もやらなかったことだからその先に何があるのか?知りたかったのです。そして、そこにあったのは「やっぱり」幸せでした。僕が抱いていた野球への魅力も、人生の喜びもありました。それ以上に本当に素晴しい出会いがありました。まさに、人生の財は友なり。
諦めずに道を切り開いて来て良かったなぁと言葉にならない感謝の気持ちでいっぱいです。


最後になりますが、日の当たる時もそうでない時も、日本では全く無名の僕を熱い声援と激励で励ましてくれたファンの皆さん、常識を打ち破るそのために沢山の勇気をくれた仲間、時には叱咤激励し前進するための貴重なアドバイスを下さった諸先輩方、共に良い仕事を追求しようと無理を承知で身体をケアして下さったメディカルケア関係者の方々、物心両面でサポートしてくださったスポンサー様各位、皆様のお陰で野球選手としても人としても大きな成長を得ることができました。最高の野球人生を送る事ができました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。心から心から感謝、お礼申し上げます。ありがとう ございました。


心配をかけてきた両親、背中を押してくれた兄弟たちにも感謝です。 そして、、、。
誰よりも僕を信じ「まだやればいいのに…」と、未だに引退することに納得していない様子の妻。2006年春。現役復帰を掛け渡米しようかどうか、猛烈に躊躇していた僕に「誰もが出来ることじゃないでしょ?あなたの挑戦を世界中が支持しなくても、私は信じてるから。それだけでいいでしょ?頑張って。」と、背中を突き飛ばしたあなたの強さに僕は敵いません。僕を救ってくれて本当にありがとう。












長々と書いてしまいましたが、野球への情熱をほんの少し、沢山の方々への大きな感謝を書きました。なんだか、「引退」と言う言葉を使うのが自分ではしっくり来ていないのが正直な気持ちです。今年は150イニング登板を目指して準備していましたからね。なので、どこかでひっそりプレーしているかも知れません(笑)日本ではまだまだスタンダードではありませんが海外では野球は生涯スポーツです。引退したメジャーリーガー達も本気で草野球をやっています。草野球と言えどもちろん硬式で。軟式野球は日本にしか存在しないスポーツなのです。プレーももちろん真剣です。50代、60代と世代別の世界大会もあるんですよ。僕の次の目標は60代日本代表ですね。はは。では!またどこかでお会いしましょう。










o(・∀・)o 「ざぁぁぁっす!」








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