自分が先、肩書きは後。 | 山部香澄 自己表現を生きる

山部香澄 自己表現を生きる

自己表現を生きるためのステップ。



こんにちは、香澄です。


今日から新年度ですね。

天気よかったので、お花見てきました。
桜





昨年なかばから、
どうも肩書きというものに違和感を感じてて

ひとりで「肩書きやめようキャンペーン」してました。



それはね、
こういうブログでお仕事する場合もそうだけど
プライベートでも、

「○○の役柄の人」
「○○好きの人」

って一言で語られるのがイヤだったから。

(便宜上、それが必要な場合はのぞくけどね)



ちなみに福岡にいたときは
カラーの香澄ちゃん、と呼ばれていたよ。


いいけど、ね。

人の口から語られると、

「香澄ちゃん」そのものよりも
「カラーの」が一人歩きする傾向にある。




役名がついてても
その演じかたは人によって違うし、
その役に対する価値観だって真逆のことすらある
(たとえば同じ「嫁」でも「母」でも、ね)

好きなものなんて状況によってコロコロ変わる。

得意なものだって増えていくし、
なにかを辞めたところで、過去の経験という財産は
減ることはない。


だから「自分」という以上のことで
自分を語ることできないんだなって
どうしても思うわけで。




そうするとね、どういうことが起こるかというと。

ブログ繋がりで、イベントでもお逢いして
いちど数年前にカラー診断に来てくださってた関西の方に

今回は、エステとスキンケア講習を依頼いただいた。


ちなみに、エステは昔とった杵柄なので
私はすでに「エステの香澄ちゃん」ではない。


でも、毎日のスキンケアや身近な人へのマッサージには、
無意識に当時身に付けた手技を使っている。



そうそう!そういう生き方がいいのよね。

職業だけ、知識だけを切り取って
自分のほとんどを表すのって不自然。

少なくとも私においては。



もちろん好みによっては

寝食も忘れてひとつのことを極めきるのが
ライフワークの人もいるだろうけどね。


それはその人の生き方と価値観であって、
やはりそれも、職業の種類だけでは語れない。



いろんな役割やいろんな仮面があって
その中からなにかを選んでそれに合わせて生きるというよりは



人生で自分が経験するありとあらゆることがまず、
混然一体となって自分のなかあって。

自分という媒体を通して職業や役割というカタチとなり、
いろんな職業に、いろんな表現に対応する、
と見る方が私にとって自然なのね。


…違い、分かるかなぁ?(苦笑)



今日はエイプリルフールで
嘘をついたりつかれたりした人もいると思うけど。


けっこう裏の裏をかく嘘もあったりして、
油断してたらあっさり騙されたりしますよね?

でも、現実なんてその程度のもん。
重たいもんでも、固定化されて動かないもんでもない。


ちょっと嘘ついて、相手が信じちゃったから
その通りに演じてみたら、そうなった。

「現実」って
そんな嘘から出たまこと程度のものだと思うんですよね。



だったら都合のいいように自分を欺いてみればいいじゃん
と思います。


既存の肩書きに自分を合わせようなんて
かたっくるしいこと考えずにね。

着ぐるみみたいな感じで、
役割なんて何度脱ぎ変えてもいいですからね。







■ファッション記事は別ブログにて:
 『センスを磨くと人生が変わる!ビジュアル編