hideさんの命日を過ぎ、hideさんのことを想う。
 それはたまたまネットで「hideとは何者だったのか?」という記事を読んだからかもしれない。
 僕にとってのhideさんはLAで収録したhideのオールナイトニッポンR4回分でしかない。
 2日間にわたる番組収録。1日2本4時間、合計8時間分。
 この2日間の記憶は今でも鮮明に憶えている。
 大人になってからの記憶でここまではっきりと思い出せる記憶は他に無い。
 ラジオは今ひとつ苦手と話していたhideさんとの収録はふたりで向き合い、僕がある程度質問を投げかけながら話して行くスタイル。あとで僕の質問の部分をカットしてひとりがたりで聞かせるつもりで収録した。
 だから結局はこの2日間僕はhideさんに聞きたいことを全て聞くことができたように思う。
 その内容はのちに「夢と自由」という本として出版された。
 レコーディングスタジオで行われたその収録は、ピンクスパイダーを始めとする楽曲の制作に没頭するhideさんを垣間見ることが出来る貴重な機会となった。

 断片的だが憶えている会話のいくつか。
 「西海岸で録音するドラムの音って抜けてるんだよね。こっち(ロス)に来る前までは何が”抜けが違う”だよって思ってたんだけど、実際にこっちで録音すると本当に抜けが違うの。何でだかわからないけれど。乾燥しているから、とか言われているけれど理由は今ひとつよくわからない。」
 この会話はスタジオの中庭でバスケットボールで遊びながらした。
 収録でした会話はほとんどラジオの本編になっているので、それ以外の会話は打ち上げのときだった。
 「グラミー賞獲りたいんだよね」
 「僕は自分の音楽をサイボーグロックって呼んでるの」
 「日本人はアメリカ人と同じ音楽体験に加えて歌謡曲も聞いているから哀愁があるメロディが作れると思うんだ」
 これらの言葉の数々は他のインタビューの中にも出て来ていることだけれど、直接本人の口から聞いた体験は今思えば得難い体験だった。
 でも僕が忘れられないのは「あのさ、節丸『さん』じゃなくて節丸って呼び捨てにしてもいい?」と問われた瞬間だ。「もう充分仲良くなったから『さん』はやめたいんだ」こう言ってくれた。
 じゃあ、僕はhideさんのこと何て呼ぼう?「アニキ」って呼んでもいいですか?と聞くと「いいよ』と。
 すごくhideさんに近づけた気がして嬉しかった。
 そのあとはもう酔って暴れて・・・。一緒に僕も暴れた。
 あとで考えるとこれが有名なhideさんの酔い方か・・と思うのだけれど、その瞬間は僕自身もハイテンションで同じノリで盛り上がっていた。
 当時のレコード会社の担当の人がhideさんの強烈な洗礼を浴びているとき、他のスタッフは青ざめていたのかも知れないけれどハイテンションな僕はただただ楽しくて。

 日本に戻ってから最後となったテレビ収録を立ち会ったときにした会話。「同録聞きました?」「いや恥ずかしくて全部聞けてないんだよね」というのが僕とhideさんの最後の会話となった。
 その翌朝はhideさんの訃報で起こされたのだった。

 数ある僕の仕事のうちでも本当に幸せな仕事だった。
 関わることができて本当に良かった。
 「グラミー賞を獲りたい」
 hideさんの夢は叶わなかったけれど、グラミー賞を受賞した日本のミュージシャンはその後何人か現れている。
 それを思うたびに僕自身もhideさんの夢を受け継いで、また誰かに伝えて行かなければならないな、と思ってみたりもするのである。