読んだ論考
大戦の終末
シチュアシオンIII サルトル全集 第10巻
渡辺一夫訳
人文書院
1964年9月

初出
La Fin de la guerre
Jean-Paul Sartre
Les Temps modernes pp165-166
1945.10
(本文中には「1945年8月20日」に書かれたとある)

所収
Situation III
Gallimard
1949

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ひとこと感想
戦勝国においては当時、これで戦争が終わると歓迎された原爆投下だが、それをストレートに非難するサルトル。厳しく、平和や人間の自由、そして、責任が問われる。

***

短い文章であるが、全文にわたって、サルトルのテンションが伝わってくる。冒頭は、こうはじまる。

「旗を掲げて祝えとは言われていたものの、人々はそうはしなかったし、大戦は、無関心懊悩とのなかで終焉を告げた。」(43ページ)

第二次世界大戦が終わる。パリでは、今一つ、盛り上がりにかけていたようだが、その理由は二つあったようだ。

一つは、ドイツの降伏がフランスにとっては事実上の終戦であったこと、そして、もう一つは、米国による日本への原爆投下がその契機であったこと、である。

前者は彼らに「無関心」を、後者は「懊悩」をもたらした。

「日毎の生活で変わったところは何一つなかっ た。ラジオがいくらわんわん言っても、新聞が肉太の大文字でいくら書き立てても、我々を充分に納得させるわけにはゆかなかった。我々としては、できれば、 何か奇跡のようなもの、空に何かしるしのようなものでも現れてきて、平和が森羅万象のなかにはっきりと刻み込まれたことを証明してくれてほしかっ た。」(43ページ)

とりわけ、後者の「原爆投下」への「懊悩」は、「平和」というものを根底から揺るがせてしまったようだ。

戦争と平和とは、はっきりと区別されるものではなくなっている。

「1934年から1939年にかけて、平和は、戦争が勃発していなくても終わることがあるということを知った。」(44ページ)

平和というものを、もっとも自分たちにとって良かったときに戻れること、と思われているが、それは「青春」との混同であり、本来の平和というものではない。

「今まで平和というものは、何か昔の状態の再来のように思われていた。」(45ページ)

しかし今や私たちは、もう、過去には戻れなくなってしまっている。

しかも今の状態が、きわめて不安定で一時的なものであり、次に起こりうる戦争への不安が消えることはない。

「日本では内乱が起こる恐れがあるし、日本軍は満州で反撃に出るかもsれぬし、天皇とその将軍たちは近い将来報復すると言っているし、シナは内乱の一歩手前にきている。」(44ページ)

サルトルの目には、日本は、降伏していながら、いつ再び攻撃を再開するかわからない、謎の国であったようだ。

「ムッソリーニもヒットラーもヒロヒトも、要するに小っぽけな王様どもにすぎないということに初めて気づいた。民主主義国家の上に襲いかかり掠奪と殺人とを恣にしたこれらの国々は、列強であるどころかごく脆弱な国家だったのだ。」(46ページ)

これは別にこれらの国のことを揶揄したくて言っているのではない。

皮肉である。

すなわり、これらの国の威力に対して、「原爆」が対比させられているのである。

サルトルは「原爆」が実際に使用されたという事実を前にしたとき、これまでのような「平和」が訪れるとは思えなくなっている。

「この戦争が終わったことをうれしいとは思うにしても、このような終わり方をするのはうれしいとは思えないのだ。」(47ページ)

第二次世界大戦が終わり、平和がやってきた、と単純に言えないもどかしさ、いやそれ以上に、到来したのは、これからを生きることの「困難さ」である。

「一発で十万人もの人間を殺すことのできる小さな爆弾、明日ともなれば、二百万人もの生命を奪うものともなる小さな爆弾、これが突如として我々人間の責任と、我々とを対決させることになったのだ。」(47ページ)

原爆の使用は、決定的に世界を変えてしまった。

「人間はいつか、自己の死滅の鍵を掌中に握らねばならなかったのだ。今日まで、人類はどこから与えられたものかも判らぬ生命を営み続けてきたし、それと同時に、自滅を完遂できる方法を用いる術もなかったからこそ、自滅を拒む力も持ち合わせていなかった。」(47ページ)

原爆が実際に使用されたことは、「人類の自滅」という「現実(可能性)」をつきつけてきたのである。

「人類の自滅」とは、言い換えれば、「人間の死」である。

「人間の死」と言えば、フーコーの「言葉と物」(1966年)がよく知られているが、すでにサルトルが1945年において、次のように語っている。

「神が死んでしまった後に、今や人間の死が予告されているのだ。」(48ページ)

しかし、フーコーの言っているのは「人間」という概念の消滅であり、それは認識論的な空間からの消滅であり、言説として現れなくなるということを意味しており、サルトルの指摘とは、文脈も次元も異なるのではないか、と訝しがる方もいるかもしれないが、フーコーは「言葉と物」ではまったく展開していなかったものの、彼自身が後には20世紀に起こった二つのジェノサイド、すなわち、ナチスによるユダヤ人への暴力と、米軍による日本への原爆を使った暴力に対して、明らかに批判的に語っていることを思い返せば、あながち、サルトルとフーコーとは言おうとしていることがまったく異なるなどとは言えなくなるであろう。

それは、次のようなサルトルの一文を読んでも、よく伝わってくる。

「もはや人類というものはない。原子爆弾の管理者となった共同体は生物界の上にある。なぜならば、生物界の生と死との責任を持つにいたっているからだ。」(48ページ)

この「生物界の上にある」ということこそ、フーコーの言う「バイオ・パワー」ではないのか、と私は考える。

「この共同体が来る日も、来る日も、一分毎に、生き抜くことを承認してくれなければならぬ。」(同)

しかし、サルトルとフーコーが大きく異なるのは、サルトルが、こうした「認識」を「政治(的実践)」の次元で問うていってはじめて意味があると考えたことである。

「たとえ、この地球がいつか粉々になってしまうべきものだとしても、この地球のためにもまた賭けねばなるまい。そのわけは要するに、我々が、この地球上にいるからだ。」(49ページ)

このような時代に生きる「私たち」にとって、「自由」とは何か。

「今後は、私の自由は、さらに純粋になり、今日私がする行為に対して、神も人間もその永劫の証人とはならないだろう。今日という日に、また永劫に、私は、私自身の証人にならねばならぬのだ。」(48ページ)

厳しい一言である。


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