名前 ――氏2 | 獨と玖人の舌先三寸

名前 ――氏2

●武士の名字――

“名字”、“姓”、“氏”はかつて別ものでした。
清和源氏新田氏流を“詐称”した徳川家康の場合、“徳川次郎三郎源朝臣家康”あるいは“源朝臣徳川次郎三郎家康”となり、“徳川”が名字(苗字)、“次郎三郎”が通称、“源”が氏(姓、本姓とも呼ぶ)、“朝臣(あそん)”が古代の姓(かばね)、“家康”が諱(いみな、つまり本名)ないし実名(じつみょう)になります。※家系図改竄┐(-_-Ξ-_-)┌


※朝臣(あそみ、あそん)は、天武13(684)年に制定された八色の姓(やくさのかばね)の制度で新たに作られた姓(かばね)で、上から二番目に相当します。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたります。この姓が創られたのは、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかった為と考えられています。

朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った、主に臣(おみ)の姓(かばね)を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたもの)に優先的に与えられました。その次に位置する、主に連(むらじ)の姓(かばね)を持つ氏族には宿禰(すくね)の姓が与えられました。その後、朝廷に功績が有った氏族のことごとくに朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになっていました。

さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、家格を序列付ける為の姓(かばね)として意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていきました。

家格順に藤原氏、源氏、平氏、橘氏(以上四大姓)。豊臣、大江、中原、菅原なども。

平安時代以降、公卿(くぎょう。三位以上及び参議)は氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称しました。四位以下の者は氏、諱の下に朝臣とつけて呼称します。氏ではなく諱の下に朝臣とつけることを“名乗り朝臣”と言いました。


・平安時代後期。律令制が崩壊し、荘園の管理や自ら開拓した土地や財産を守るために武装集団である武士 が出現します。武士は自らの支配している土地の所有権を主張するために自分の所有する本貫地(名(みょう))の地名を“名字”として名乗り、それを代々継承しました。また荘官であれば荘園の名称を、郡司であれば郡の名称を名字とする者も在りました。

鎌倉時代。武士の所領が拡大し、大きな武家になると全国各地に複数の所領を持つようになります。鎌倉時代の武家は分割相続が多かったため、庶子が本家以外の所領を相続すれば、その相続した所領を名字として名乗りました。またさらなる土地の開墾によって居住域が増え、新たな開墾地の地名を名字とし、ますます武士が名乗る名字の数は増大していきました。

ただし、注意すべきは、名字(苗字)は異なろうとも、姓(本姓)は同じということです。

※新田義貞と弟 脇屋義助は、本姓で言えば兄弟とも源姓で、源義貞、源義助です。新田という名字(苗字)は――
源義家(八幡太郎義家。八幡太郎は通称)の四男――
源義国(足利式部大夫義国。足利は義国の母の里名、式部大夫は役職)の長男――
源義重が、新田荘を開墾して所領とし、藤原忠雅に寄進して荘官に任命されたことから新田荘の荘名を名字にしたことに始まります。
義助は兄の義貞が相続した嫡宗家から独立して新田荘内の脇屋郷を分割相続して住んだことから、脇屋を自己の名字とし、脇屋義助と名乗りました。しかし新田氏は、源頼朝から門葉として認められなかったため、鎌倉時代には幕府の文書に「源○○」と署名する事や記載されることはありませんでした。

※氏の後に、のを入れて読むことが多いですね。この“の”は、帰属を表します。
例えば蘇我馬子(そがのうまこ)ならば、“蘇我氏「の」馬子”、源頼朝(みなもとのよりとも)ならば、“源氏「の」頼朝”という意味となる。「の」=“に属する”です。