大英帝国の落日・英国病 | よくわかりたい歴史
 イーデンの辞任をうけて、外務大臣だったハロルド・マクミランが首相となります。
 マクミランは、イーデンの外交路線を引き継ぎ、欧州経済共同体(EEC)に参加を表明。これを拒否されると、欧州自由貿易連合(EFTA)を発足させ、EECを取り込んでいこうとします。
 しかし、国内を見れば、英国経済はどんどん疲弊するばかりでした。福祉国家化した英国は、その財源として過剰な累進課税を採用し、労働意欲がどんどん失われていきます。

 そして、ダグラス・ヒュームを経て、ハロルド・ウィルソンが首相となります。
 ウィルソン政権は、アトリー以来の労働党政権です。英国の疲弊を止められない保守党に期待する事を止めた英国国民は、福祉国家をよりよく運営できると謳った労働党に政権を与えます。
 ですが、もとはと言えば労働党が敷いたレールを過剰な速度で走ったがために疲弊した英国経済は、ブレーキをかける事でしか解消できるはずもありません。
 そして、福祉路線にブレーキをかける事で利益を失う労働組合や貧困層は、労働党の選挙基盤でもあります。当然、労働党に改革などできるはずもなく、労働党は政権を失います。
 しかし、保守党にもどうにもできなかったが故にウィルソン政権が誕生したわけですから、その政権が、保守党のエドワード・ヒースに戻った所で、やはりどうにもできません。
 その次の政権は労働党の大物ジェームズ・キャラハン。労働組合に強い影響力のあるキャラハンなら、と期待されての首相就任でしたが、身内の言う事なら痛みを受け入れるかというと、そんな事はなく、キャラハンもさしたる成果を挙げられません。
 政権はいったりきたりします。

 この期間、いわゆる「英国病」と呼ばれた英国経済の失墜は、留まる所を知りません。
 拡大された福祉と労働者の権利が、際限ないストライキや労働争議を生みます。公共輸送機関である電車が長期間にわたってストライキを行い、機能しないなど、およそ近代国家ではありません。
 製造業の技術革新が行われず、国際競争力は落ちる一方。石炭、電力、ガス、鉄鋼、鉄道、造船などの産業が国有化され、巨額の赤字を積み重ねます。
 国有企業が増加し、公務員の数も拡大します。ですが、生産効率は劣悪、行政サービスの質も最悪となります。
 失業者や貧困層を支える福祉のために財政赤字はどんどん増加し、国債の累積残高が増加し続けます。増税で歳入を増やそうとしますが、赤字の増大で直ぐに打ち消されてしまいます。そして、度重なる増税は、国民からどんどん労働意欲を奪い取っていきます。
 英国はズタズタに転落していきます。

 1976年、英国は遂にIMFから緊急融資を受けます。
 ポンドは暴落し、国内では劇的にインフレが進み、外国からの買い物客が殺到します。すっかり、発展途上国扱いです。物価の安い東南アジアに日本人が遊びに行く感覚で、大陸から英国に観光客がやってくるのです。

 こんな状況の英国で、1979年5月、総選挙で保守党が大勝し、マーガレット・サッチャーが首相となります。