◆突然ですが!43歳にしてロック・アイドルになりました! | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<時代の寵児(ちょうじ)を超えた男>>



ヒトの潜在能力って

計(はか)り知(し)れない

モノがあります。



「そう言われていますね。」




「コトワザにも

火事場(かじば)の馬鹿力(ばかぢから)

って言うのがあるくらい

ですからネ!」





*火事場の馬鹿力(かじばのばかじからとは、

差し迫った状態に置かれると、


普通ではそうてい考えられないような、

とんでもない力を発揮すること。






火事場(かじば)の馬鹿力(ばかぢから)


そのチカラは一瞬ですが、

長年に渡ってそのチカラを


高いレベルで発揮し続けると

言うのはどうでしょうか?




「それはなかなか普通の方のレベルでは

あまり耳にしないと思いますが・・・。」





そうかもしれませんネ!




「今日ご紹介のカタでしょうか?」




そうです。





躍動感あふれるブギウギ・ピアノ

とセッションしたと思えば、



ジャンプやロックンロールへの

黎明期(れいめいき)を

活躍して、



更にはですね・・・。




「ハイ!」



更には43歳にして




「43歳にして・・・。何でしょうか?」




ティーンエイジャーを唸(うな)らせる

ロック・アイドルとして

脚光(きゃっこう)を浴(あ)びたのです。






「それは時間軸を超えていますので、

まさに”時代の寵児(ちょうじ)”と言う


言葉をも遥(はる)かに

凌駕(りょうが)していますネ!」





*時代の寵児(ちょうじ)とは、

その時代の風潮に合った才能を発揮して

成功し、人々にもてはやされる人。







<<ビッグ・ジョー・ターナー登場!>>



今日ご紹介するジャズ・マンは

ビッグ・ジョー・ターナーです。



(今日ご紹介するジャズ・マンは
ビッグ・ジョー・ターナーです。)




彼のパワフルなシャウトスタイルは

まさに“ボス・オブ・ブルース"

と呼ばれるだけあって、


堂々たる風格があります。


しかも時代時代に合わせて

フレキシブルに

サウンドにチャレンジしていった



その精神はまさに“ボス・オブ・ブルース"

彼にふさわしいネームだと思います。



「長い期間に渡って

常に第1線で活躍されたのですネ!」



「なかなか出来るコトでは

ありませんよネ!」




各々(おのおの)の時代に

合わせつつも、

それでも最後には

ジャズの世界に戻ってきた・・・。


その辺(あた)りは

彼が自分の原点を

忘れていなかったのでしょう。



「その点がファンとしては

非常~に嬉(うれ)しいですよネ!」







☆Big Joe Turner - Live at the Apollo - "If you remember" ♪


☆Big Joe Turner - Oh Well, Oh Well.mpg ♪


☆Big Joe Turner & Axel Zwingenberger - Cimarron St Breakdown ♪




☆ビッグジョー・ターナー BIG JOE TURNER

本名: ジョセフ・バーノン・ターナー・ジュニア

(1911年5月18日- 1985年11月24日)


アメリカ合衆国 ミズーリ州カンザスシティ生まれ。

アメリカのブルース シャウター。



ソングライターDocポーマスによると、

「ロックンロールは、彼なしで

ここまで起こりることはなかった。」



彼の先駆的なロックンロールの録音で1950年代に

特に "Shake, Rattle and Roll"において

最大の名声を得た。



ターナーのキャリアは1920年代から1980年代に

渡った。

ターナーは1987年のロックンロールの栄誉の

殿堂入りは果たした。



ブルーズ界のボスとしてさまさまに知られていて、

ビッグ・ジョー・ターナー(彼の6'2"、300ポンド

の背丈のため)

カンザスシティーで生まれて、最初は教会との

関係を通して、音楽への愛に目覚めるようになる。



ターナーの父親が亡くなったのは彼が4歳の頃だった。



彼はお金を稼ぐために街角で歌い始めた。



カンザスシティーのナイトクラブ・シーンで

働き始めるために14歳で学校を離れた。



そして、最初コックとして、

後に歌うバーテンダーとして働いた。



 結局、彼はSinging Barman

「歌うバーテンダー」として

知られるようになって、


ザ・キングフィッシュ・クラブとザ・サンセットの

ような会場で働いた。



そこで彼と彼のピアノ・パートナーPete Johnson

常駐の出演になった。



(Pete Johnson)



ザ・サンセットはPiney Brownよって

管理されていた。



そこは白い常連客のための施設で

”分かれてはいるが平等”が特色だった。


ターナーは彼の誇りとして"Piney Brown Blues"

かいた。そして彼の全キャリアを通してそれを歌った。


その頃のカンザス・シティーは "Boss"

Tom Pendergastによって開かれた街だった。




(Tom Pendergast)




それにもかかわらずクラブは警官によって

襲撃を受けた。



しかしターナーが語るように、

私たちがそこに着く前に警察署には

ボスの保証人がいて彼を引き取るだろう・・・。


私たちは中に入って署名にサインして

外へ歩き出した。

それから私たちは朝までキャバレーで

過ごした。




ブギウギ・ピアニストPete Johnsonとの

パートナーシップは実り多い。

1936年、彼らは一緒にニューヨークに向かった。


そこで彼らはBenny Goodmanと一緒に出演した。



(Benny Goodman)



しかしターナーは語った。:

グッドマンとのショウーの後、

我々はいくつかの場所でオーディションを受けた。


しかし、ニューヨークではこれまでに我々の準備が

充分ではなかったので、我々はK.C.に帰った。




結局彼らはタレントスカウトによって発掘された。


彼の名はJohn H. Hammond。



(John H. Hammond)



1938年にカーネギーホールで、

"From Spirituals to Swing" のコンサートの

一部に彼らを出演させるために、

ニューヨークに招いたのだった。





("From Spirituals to Swing")



そこではジャズとブルーズを

より広くアメリカの観衆に

もたらすことに尽力した。




カーネギーホールの彼らの出演も手伝って、

ターナーとジョンソンは、 "Roll 'Em Pete"

「彼らピートを転がしてくれ」で

メジャーヒットを勝ち取った。



サウンド・トラックは基本的に

最も初期のバックビートのひとつを例にとって

録音された。

そして伝統的なブルーズの歌詞のコレクションの

ひとつを特徴とした。



それはターナーが続く年にわたって、

ミュージシャンの様々な組み合わせで、

何回も録音した曲だった。





<1939年~1950年>



1939年にブギ・プレイヤーの Albert Ammons

Meade Lux Lewisと共にニューヨークのクラブ

 Cafe Societyに居住し始めた。



(Albert Ammons&Meade Lux Lewis)




そこでBillie Holiday やFrank Newton's bandと

同じ番組に出演したのだった。



(Billie Holiday)




(Frank Newton's band)



"Roll 'Em, Pete"「ピート彼らを打ち倒して」の他に

この期間からのターナーの最も有名な録音は


 "Cherry Red"「チェリー・レッド」

 "I Want A Little Girl" 「少女が欲しい」

そして "Wee Baby Blues”「小さい赤ん坊ブルーズ」

だった。




 トランペットのHot Lips Pageと

出演したフルバンドと共に

"Cherry Red"は1939年

ヴォーカリオン・レーベルで録音された。




次の年デッカーに移籍して、

ジョンソンのピアノをつけて、

 "Piney Brown Blues"が録音された。


しかしターナーのデッカーでの録音の全てが

ジョンソンとのチームではなかった。




"Careless Love"「不注意な愛」では

 Willie "The Lion" Smith が一緒だった。



 (Willie "The Lion" Smith)



 "Rocks in My Bed" 「私のベッドの中のロック」

(1941)ではFreddie Slack's Trioが支援した。




(Freddie Slack's Trio)




1941年彼はロス・アンジェルスに向かった。

彼はハリウッド でのDuke Ellingtonのレビュー

Jump for Joyで活躍した。



(Duke Ellington)



 彼は"He's on the Beat"「ビートの上の彼」

と呼ばれるコメディー・スケッチに

歌う警官役で出演した。





ロサンゼルスはしばらく彼のホームベースになった。

そして、1944年に、彼はMeade Lux Lewis's Soundies

のミュージカル映画の中で働いた。



彼はサウンドトラックの録音では歌ったが、

映画には出演しなかった。


彼のヴォーカルはカメラ用に

コメディアンのDudley Dickerson

によって歌われた。



(Dudley Dickerson)



1945年に、ターナーとピート・ジョンソンは、

彼ら自身のバー”The Blue Moon Club”を

ロサンゼルスにに開いた。


同じ年National Recordsと契約した、

Herb Abramsonの監督のもと録音した。




(Herb Abramson)




彼の最初のナショナルでのR&Bヒットは

Saunders Kingの"S.K. Blues"のヴァージョンと

共に1945年にやってきた。



(Saunders King)



同じ年に"My Gal's a Jockey"ときわどい

"Around the Clock"「時計の周りで」

録音した。


そしてアラジンでは”ブルースの戦い”

下品な2部作でWynonie Harrisとのデュエットで

発売された。



(Wynonie Harris)




ターナーの録音は1947年までナショナル盤が

残されている。

でも彼のどの録音もビッグ・セラーではなかった。


1950年に Freedom labelより"Still in the Dark"

「闇に潜んで」が発売された。



ターナーは沢山の録音をした。

ジョンソンだけではなく、

色々な小さなジャズ・アンサンブルと共に、

ピアニスト・Art Tatum やSammy Priceと組んだ。


彼は、いくつかのレーベル上で録音して、

 Count Basie Orchestraとも参加した。



 (Count Basie Orchestra)



彼のキャリアの中で、ビッグバンドから

ジャンプ・ブルーズへリズム・アンド・ブルーズへ

そして最終的にロックンロールへ連続して

移っていった。



ターナーは伝統的なブルーズの詩句のマスターだった。

伝説的なカンザスシティー・ジャムセッションで、


彼は何時間も楽器のソリストと

合唱を交換することができた。






<1950年代に成功>



1951年に Jimmy Rushingの後任として

ハーレムのアポロ劇場で the Count Basie Orchestra

と活躍している間、


彼はAhmetと Nesuhi Ertegunに見つけられて、

Atlantic Recordsと言う彼らの新しいレコード会社と

契約した。



ターナーは彼らのためのヒット曲を録音した。

それにはブルーズのスタンダード曲

"Chains of Love"と"Sweet Sixteen"を

含んでいた。




彼のボーカルの多くはバンド・メンバーへの

シャウトで中断した。


"Boogie Woogie Country Girl"

(”それはグッドなロッキン・バンドだ。”

”イケ!ウッ!それは、オレがちょうど欲しかったんだ。”)



そして"Honey Hush"では

(おそらく彼はローンレンジャーのパロディで

 "Ride, Red, Ride"を歌っているTreniers に

対して、"Hi-yo, Silver!"を繰り返し歌ったのだった。)



ターナーの録音は、リズムアンドブルーズ・チャートの

トップに立った。

だがいくつかのラジオ局は時折、現実的で

彼らの演奏をしないようにした。

曲はジュークボックスとレコードで激しい対戦を受けた。




ターナーは1954年 "Shake, Rattle and Roll"

ビッグ・ヒットさせた。



その曲は彼を10代のお気に入りのヒトツとして

彼のキャリアを高めただけではなく、




彼のポピュラーミュージックへの転向を

助けた。



その曲はかなり生々しくて、ターナーは

シャウトして彼の女に

「ベッドから出て、顔と手を洗えよ~台所でやると、

なべややかんがガタガタいっちまうぜ~

スケスケドレスにオレの目は釘付けだぜ・・・」



そうしたコメントは

彼女は服を着た。太陽は終わりまで輝いている。

私は自分の眼が信じられない。

全ての混乱はキミにあるなんて。




彼は1955年劇場版リズム・アンド・ブルースの

レヴューでフィルム上でナンバーを歌った。




Bill Haleyと彼のCometsによって歌のカバーが

キワドイ歌詞が不完全な形でクリーン・アップされたが、

ビッグ・ヒットした。



(Bill Haley)



多くのリスナーはターナーのバージョンを捜して、

それによってリズム・アンド・ブルーズの

全世界に導かれた。



エルビス・プレスリーはそんな導きなど

必要ないトコロをみせた。


プレスリーの"Shake, Rattle and Roll"バージョンは

Haleyのアレンジとターナーの歌詞を合わせたが

シングルとしてヒットはしなかった。


突然!43歳にしてターナーはロックスターだった。





彼のフォローアップは

 "Well All Right"「まあオール・ライト」

 "Flip Flop and Fly" 「とんぼ返りとハエ」

"Hide and Seek" 「かくれんぼ」

"Morning, Noon and Night" 「朝も昼も夜も」


そして"The Chicken and the Hawk"「ニワトリと鷹」


 "Shake, Rattle and Roll"のすべてグッドタイムの

感覚で続けられた。




彼は1950年代半ばにアポロでのテレビ番組

Showtimeへそして映画Shake Rattle & Rock! (1956)

へ出演した。



(Shake, Rattle and Roll



1956年”Corrine、Corrina”はターナーに

もうひとつの大規模な売り手を提供した。



1956年ロックに加えてブルーズ・アルバムの古典的な

Bossをカットする時間をみつけた。



1958年5月26日 "(I’m Gonna) Jump for Joy"

20回目でターナーの最後のヒットで、

アメリカのR&Bレコード・チャートに入った。





<ブルーズへの回帰>



この傾向の中でいくつかのヒットの後、

ターナーはポピュラー・ミュージックの



後ろを離れて、彼のルーツの小さなジャズの

コンボの歌手として戻ってきた。

1960年代と1970年代のスタイルの曲を

録音した。




1966、Bill Haleyはメキシコでポピュラー曲の

シリーズのために彼にCometsを貸すことで

ターナーのキャリアを復活させる手伝いをした。





明らかにそのような記録はまだ表面化して

いないように、2人は"Shake, Rattle and Roll"の

デュエットでの録音を誰も考えていなかった。




1977年彼はGuitar Slimの

 "The Things That I Used to Do"

カバー・ヴァージョンを録音した。




(Guitar Slim)




1960年代と1970年代にはジャズ・アンド・ブルーズ

によって開拓された。

多くの音楽祭に出演しNorman Granz's Pablo label

のためにかつての親しいライバル

Jimmy Witherspoonと共に録音した。




(Jimmy Witherspoon)




彼はまたドイツ人ブギウギ・ピアニストの

Axel Zwingenbergerと一緒に仕事をした。




(Axel Zwingenberger)



ターナーはまたWynonie HarrisやT-Bone Walker

と 気前よく'Battles of the Blues'に参加した。




(T-Bone Walker)




彼が優れた歌手としての功績は

1945年の男性ヴォーカリストとしての

エスクワイヤー・マガジン賞、



1956年、ベスト・ニュー・ヴォーカリスト

としてメロディーメーカー賞、


そして、1965年にはトップ男性シンガーとして

ブリテッシュ・ジャズ・ジャーナル賞を

獲得した。




1977年にターナーは Lloyd Glennのピアノで

Spivey Records用に

 "I'm Gonna Sit Right Down and Write Myself a Letter"

を録音した。




ターナーのキャリアは1920年代(彼の父親の帽子と

鉛筆での口ひげをつけて活躍した12歳の頃)の

カンザス・シティーのバー・ルームから

1980年代の European jazz music festivalsに

わたる。


1983年彼の亡くなる2年前に Blues Hall of Fame

の殿堂入りを果たした。




同じ年にブルーズ・トレインの Mute Recordsが

発売された。


アルバムはRoomful of Bluesと共にターナーと

ペアだった。




ターナーもまたカンザスシティー・ジャズ

親睦会映画 The Last of the Blue Devils (1979)

の中でCount Basieと広告の最上段に記銘された。




(The Last of the Blue Devils (1979))




映画ではJay McShann、Jimmy Forrest そして

街から他のプレイヤーを主演させた。




< 死 亡 >

彼はカリフォルニア州イングルウッドで亡くなった。

74歳、心臓発作で脳卒中と糖尿病からの関節炎の

初期の症状からの影響だった。




< 賛 辞 >

故ニューヨークタイムズ

音楽評論家ロバート・パーマー:


「彼の声はカウント・ベイシーのソロのように

圧倒的で、豊かでそしてサックスフォーンの

セクションとして荒く、

そのサウンドは全くの豪華さで部屋を支配した。」



1985年12月の版で

彼らのターナーの死を発表する際に、

英国の音楽誌(NME)は、ターナーを

「ロックンロールの祖父」と言った。




Bob Dylanは2001年のアルバム

 Love and Theftからの曲

"High Water (For Charley Patton)"の中で

ターナーを引用した。




ソングライターのDave Alvinは

"Boss Of The Blues"と言うターナーの

タイトル共に過ごした夕方について

歌を書いた。




(Dave Alvin)



2009年に Dave Alvin & The Guilty Womenを

発売した。


 AlvinはThe Blasters Newsletterの55号で

曲について論じていた。



           (ウィキペディアより抜粋)

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