夏祭浪花鑑(団七内、同屋根上) | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

<団七内>
「親殺し」の罪が妻子(吉弥、安藤然・岩間甲樹)に及ばぬようにと、義理を大切にする三婦(左団次)と徳兵衛(猿弥)が力を合わせて、「お梶」と「市松」を救出する一場である。
しかし、徳兵衛がお梶に不義をしかける科にしても、団七と徳兵衛の「蚤の談義」にしても不自然だったり、味がなかったりして至極つまらない。

<屋根の上>
屋根の上の立ち廻りがつくと、かえって<江戸風>の芝居を見ているような気分になってつまらない。「団七内」とか「屋根の上」の捕物(とりもの)などが、これまで上演されずにいたことも、こうしてみると当然のようにも思われる。
やはり、追いつめられ、動顛(どうてん)し、朦朧とした意識のなか、蹌踉(そうろう)とした足どりで花道を去ってゆく団七を見て、観客たちが思わず胸を痛めながら、その行く末をあれこれと案じてしまう…という形で終わりを迎えたほうが、余韻を揺曳(ようえい)して、かえってすばらしいものになるのではあるまいか…。

さて、最後に「上方言葉」について書いておく。今回の「夏祭」でも、いい加減な「大阪言葉」が横行し、それがどれほどこの公演をつまらないものにしているか、全くはかりしれないほどのものがある。なぜしっかりと勉強しないのか。
それについても、筆者には忘れることの出来ない光景があったのを想い出す。今から三十年も前の話である。松緑(二代目)が「毛剃」を出し、宗十郎(九代目)が「京」の商人・小松屋惣七を勤めたときのことである。その舞台稽古の日、「潮見の見得」が終わって、幕が閉じられると、それを見ていた勘三郎(十七代)が、突然大きな声で、幕内の宗十郎を呼び出した。宗十郎が出てくると、勘三郎はまくしたてるように「駄目だよ、お前さん!あのね、お前さんの台詞はね、大阪弁と奈良弁を混ぜ合わしたような、変てこりんな言葉なんだ。まるで<京言葉>になっちゃいないよ。駄目だよ、そんな事じゃあ。ちゃんと教えてあげるから後でいらっしゃいよ、いいね。この芝居、惣七がちゃんとした<京言葉>を使わないと全く毀(こわ)れちゃうんだから…」といったものである。なかなかいい話だと思うのだが如何…!