◆最高のパートナー(前偏)♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<チャンスを紡(つむ)ぐ者>>



チャンスさえあれば、

成功できるのに・・・。



とか。




アイツはチャンスを掴(つか)んだんだ!

ダ・カ・ラ・成功出来た!



とか。





僕は今チャンスを待っているんだ!


とか。






チャンスに纏(まつ)わるお話しは

よく耳にします。





「特に個人の能力を武器に

それを売り込んで、


あわよくば、

ポストを狙(ねら)うコトが

競争社会のひとつの構図でしょうから・・・。」








それにしても

”チャンスは前髪しかついていない”

とよく言われていますね。







「ちょっとどの様な人物なのでしょうネ!

想像でき兼(か)ねマスが・・・。」






(チャンスは前髪しかついていない?)







・・・・・?




チャンス!



それは” ヒ ト ”かもしれません。



”モ ノ ”かもしれません。



それらを含めた” 大 き な 流 れ ”

言う方もいらっしゃいます。





「恐らく、大切なコトは

過ぎてしまっては、

もう遅いと言うコトでしょうか?」







そうですね。





彼もチャンスを待っていました。






「今回ご紹介の彼ですか?」




そうです。




でもただ待っていただけではなく、

準備もしていました。





(ただ待つだけではなく、準備もしていました。)






「そこは、さすがです。」^^





最初に覚えた楽器はチューバ。


それからトランペットを

愛器とする様になりました。





「ふむふむ」





それで実践の方ですが、


彼は14歳になるまでには

南部の有名バンドたちと

多くのセッションをこなしていたそうです。





「いいですね。」


「ひょっとして地元では神童と

呼ばれていたのでは?」







どうでしょうか? ^ ^



でも、舞台では年も若いし、

才能もありましたので、



ステイタスはそれなりに

あったかと思われますネ!




そして、19歳の頃には

地方、地元のツアーが

定着していたそうです。






「もう、誰も彼のコトを

年が若いからとか、

その若さゆえの客引きアイドルとか

呼ばなくなったのではないでしょうか?」







彼に対しては、

その様な記録はありませんが、



最初はある意味そう言った見方を

体験することはあるとは思いますが、





この音楽をやっている方たち

というのは・・・。






「はい」





凄く分(わ)かり易(やす)い

方たちかと思われます。





(凄く分(わ)かり易(やす)い
方たちかと思われます。)






「と、言いますと?」






実力があるのか?そうではないのか?

それは簡単にワ・カ・ル・




と言うコトです。






「つまり・・・。どう言うコトでしょうか?」






その音楽家の出す音(おと)に

耳を傾けさえすれば良い。




・・・と言うコトです。







「あっ!なるほど」





特に彼の場合は

有名バンドとのセッションを

数多くこなして、


更にはツアー経験も豊富ときています。




そうするとどうでしょう?






「彼の実力は

”折(お)り紙(が)つき”ってコトですネ!」






<<デイブ・バーソロミュー登場!>>



今回ご紹介するジャズ・マンは

デイブ・バーソロミューです。


(今回ご紹介するブルーズ・マンは
デイブ・バーソロミューです。






彼は徴兵される前に

バンドの代表をいくつか務めて、




「OH!バンドのまとめ役ですか?」





はい。



更に、軍にいる間には

彼自身の手による作曲と編曲を

経験しました。






「いいですね。

音楽キャリアが積み上がってきています。」 ^ ^







それから退役して

ニューオリンズにてバンドをまとめます。






「いよいよカタチになるのでしょうか?」






彼の興味深いトコロは

ただバンドのまとめ役ではなかったのです。





「と、言いますと?」






ご承知の通り


ニューオリンズは音楽のメッカです。




「そうですね。」






そこには様々な形態のミュージシャンが

集まってきます。





「なるほど。」






その中にはソロで集まる方たちも

いたそうです。




「ふむふむ」






彼のバンドはそう言った

地元の馴染(なじ)みのない

ミュージシャンであっても




スムースに仕事が出来る様に

そのバック・アップも

手伝ったそうなのです。





(仕事のバック・アップも手伝ったそうなのです。)






「それは素晴らしいですネ!」




そうです。




他方からきたソロのミュージシャンたちは

地元のバンドにバック・アップされて

それは喜んだでしょうし、




更には、逆に彼のバンドが

地方巡業など行ったトキには



何かの縁で情報を提供してもらったり

出来る可能性がある



・・・と言うコトです。





「OH ! 

まさにウイン&ウインの関係ですね。」






そうですネ!




それから彼は26歳で

レコード・デビューを果たしますが、






「OH ! 

ついにレコード・デビューですか!」






ところがそのレコード会社は

倒産してしまいます。







「それは・・・。ショックですよネ!」







そうだったかと思われますネ!




それから2年後にチャンスがやってきます。







「そうですか。

いよいよ前髪を掴(つか)むトキですか!」








時の資産家の方が

新しいレーベルを立ち上げていて、





(時の資産家Lew Chudd)






「ほうほう」




彼は編曲家、

バンドリーダー、タレントスカウト

として雇われたそうです。




「つまり、今まで彼の蓄積してきた

キャリアそして才能を認めてくれたのですね。」





そうです。


そして更に彼は

もう一人のデルタ・エリアの

ミュージシャン、


アントニオ・ファッツ・ドミノと出会ったのです。





(アントニオ・ファッツ・ドミノ)








☆Dave Bartholomew - My Ding a Ling ♪

☆The Monkey - Dave Bartholomew ♪

☆Dave Bartholomew -
When The Saints Go Marching In Boogie ♪


☆Dave Bartholomew - Good Jax Boogie ♪






☆デイブ・バーソロミュー DAVE BARTHOLOMEW


( 1920年12月24日~    )




米国ルイジアナ州エドガー出身のミュージシャン、

バンドリーダー、作曲家、編曲家。

1950年代以降のニューオーリンズ音楽の

形成に大きく貢献した。




バーソロミューは、

リズム・アンド・ブルーズ、

ビッグバンド、スウィング・ジャズ、



ロックンロール、ニューオーリンズ・ジャズ、

ディキシーランド・ジャズなど



数多くの音楽ジャンルで活躍した。







彼は50年代古典派ニューオリンズR&Bの

多くの一人に隠れたマルチタレントの持ち主だ。


そして彼はビッグ・ビートの

発明者を自称していた。






彼は4000曲以上を超える録音を行った。


Shirley & Lee, Lloyd Price,





(Shirley & Lee







(Lloyd Price)





 Smiley Lewis,特に Fats Dominoなどの






 (Smiley Lewis)






時間を超越した録音や編曲、

そして製作を果たしたのだった。








< 略 歴 >



バーソロミューは1920年12月24日

ルイジアナ州エドガーで生まれた。




最初に覚えた楽器は

チューバであったが、



のちにトランペットが

彼のメインの楽器となった。





14歳になるまでに彼は、

 Papa Celestin, Joe Robicheaux





 (Papa Celestin)






(Joe Robicheaux)






そしてProfessor Claiborne Williams

といった





(Professor Claiborne Williams)







南部の最も人気のあるバンドの多くと

彼らの間で、既にプレイしていた。







1939年、彼はリバー・ボートの

 SS Capitolに乗り、

Fats Pichon bandと一緒に演奏した。






(Fats Pichon band)






ミシシッピー州を上がったり下がったりの

ツアーをして、

夏はセントポール、ミナソタで、

冬は地元のニューオリンズの過ごした。






彼は徴兵される前に、

クレセント・シティーで

Jimmy Lunceford Orchestraを含む

いくつかのバンド代表を経験した。






(Jimmy Lunceford Orchestra)







彼は軍にいる間は、

U.S.アーミー・バンドに務めると

同時に彼の手による

初の作曲と編曲に挑戦した。







軍の任務を解かれたあと、

彼はテキサス州、ヒューストンで

自身のバンドのスタートするコトによって

戦後シーンにゆっくりと入っていった。






彼はニューオリンズに戻って

街のR&Bの基盤を構成する

ミュージシャンたちのグループをまとめた。






その中にはサックス奏者のAlvin "Red" Tyler,






(Alvin "Red" Tyler)







Lee Allenそしてドラマーの Earl Palmerがいた。





(Lee Allen)








(Earl Palmer)





彼のプロのキャリアは、

これらのバンドを

結成したところから始まっている。




このバンドはニューオリンズをツアーする

ソロのアーティストの大多数を

バック・アップするコトになった。








1947年、デラックス・レコードで

彼は彼の名前で初のスタジオ・セッション

をリードするが、



しかし、レーベルは

その後まもなくは倒産してしまい

殆ど話題にはならずに終わった。







1949年に彼は新しいレーベル、

Imperial Recordsを立ち上げていた

Lew Chuddに出会った。




チャッドは彼を編曲家、

バンドリーダー、タレントスカウトとして

雇った。




彼はレーベルと契約してすぐに、

もう一人のデルタ・エリアの

音楽人 Antoine "Fats" Dominoと知り合った。





Antoine "Fats" Domino)



                 (ウィキペディアより抜粋)


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