◆ブルーズが廃(すた)れるトキ、 それはオレ自身が死ぬトキ。 | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<シカゴ・ブルーズの父>>



今日ご紹介するブルーズ・マンは

時代でいうと

1930年代~1950年代でしょうか。


早くからエレキ・ギターを取り入れたりして、

ラグタイム・ブルースを

カントリー・ブルースに、



カントリー・ブルースを

更にシティ・ブルースにと

進化させた御方(おかた)です。


シカゴ・ブルースの父と

呼ばれています。


(シカゴ・ブルースの父と呼ばれています。)



「なかなか革新的な方ですね。

結構イケイケでご活躍されていたのでしょうか?」




いや~っ。そうでもないようですよ。


「えっ?」


なんといっても

彼の人生の大半では、寝台車のポーター、

コック、鋳物工、守衛をして

収入を稼いでいたそうです。


1950年代初期の同時代の他の人のように

華々しいエレクトリックのギタリストでは

決してなかったそうです。




<<彼はブルーズを愛している>>


「そうですか。

でもそれでもブルーズを諦めるコトはなかった

それはナゼでしょうか?」



彼が手記の中で語っていますが

ブルーズを愛しているといっていました。



それも流行に流されない

昔風のスローな本物のブルーズです。




「なんでしょうか?

そのひと言はココロにヒビキますね。」




彼はこうも言っています。

昔風のブルーズが廃れてしまうのがイヤで。


そのときは・・・。

彼自身が死んでしまうトキ!


とまでいっています。



そして・・・。



「そしてナンでしょう?」



彼は昔風のブルーズ

そのスタイルを愛している・・・。


とそういっています。





<<ビッグ・ビル・ブルーンジー登場!>>



今日ご紹介するブルーズ・マンは

ビッグ・ビル・ブルーンジーです。


(今日ご紹介するブルーズ・マンは
ビッグ・ビル・ブルーンジーです。)




時代の要求で商業的な活動を

求められるコト


それはブルーズ・マンだけに

限られた話ではありません。



その中で芸術性を腐敗してしまうこと

それもヨクあることと

いわれています。



彼の本物のブルーズ・マンとして


そしてひとりの人間としての

生き様を感じ取っていただけたら

そう思います。


☆Big Bill Broonzy-Key to the Highway♪

☆Big Bill Broonzy - Backwater Blues  ♪




☆ビッグ・ビル・ブルーンジー

(Big Bill Broonzy ,

1893年または1898年6月26日 ? 1958年8月15日)



アメリカ合衆国ミシシッピ州スコット郡生まれ。

シンガー、ギターリスト、バイオリン、作曲家。

生涯で300曲近くのブルースを作る。



1924年 シカゴにてパパ・チャーリー・ジャクソン

(w:Papa Charlie Jackson)にギターを教わる。


1929年最初にソロのシンガーとして録音し

そのスタイルで録音を続けた。



1936年「ビッグ・ビルと彼のシカゴ・ファイブ

(Big Bill and his Chicago Five)」名義でリリースされた。



1938年「スピリチュアルズからスウィングまで」(ニューヨーク

カーネギーホール)ロバート・ジョンソンの代役として出演。



1939年ヴォカリオン(後のオーケー)に現われる。



1945年以降はコロンビア・レコーズに移籍。

彼の最も知られた曲のひとつ、

「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」はこの頃に書かれた。



1930年代の間はメンフィス・ミニーと共にツアーをした。



1948年~1951年マーキュリー・レコーズのレーベルで

一握りのレコードを作った。



1956年初めまでヨーロッパ中を広範囲にわたってツアーし、

そして録音した。



1942年の初めにはエレクトリック楽器を

導入していたにもかかわらず、


彼の新しい白人の観衆たちは、

彼にアコースティック・ギター一本だけで

初期の曲を演奏するのを聞きたがり、


それらの曲がより「正真正銘」であると考えられた。



1956年にシカゴに戻り、演奏を続けた。


「I Come for to Sing」と呼ばれる

フォーク音楽の批評のツアーをした。



彼はシカゴのオールドタウンスクール・

オブ・フォークミュージックを

設立した教員の一人であった。



1958年咽頭癌で死亡。


             (ウィキペディアより抜粋)