哲学者、ギュンター・アンダースの「異端の思想」を読んでいる。
なぜ無差別大量殺戮は恐ろしいのか――異端の思想(G・アンダースを読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11904573267.html
が、少々、寄り道をしている。
ハンナ・アーレントとの「苦い」思い出を語るギュンター・アンダース
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11909212318.html
ここでは、本書にある、ネコに関するエピソードについて、ふれておきたい。
ギュンターは、かなりの変人、というか、頑迷で屁理屈をこねる男という印象が強い。
世間の常識や決まりごとを一切鵜呑みにするつもりのない男、それがギュンターである。
アレントから「暗い男」と呼ばれ、ハイデガーからも「目立たない学生」と言われたギュンター。
しかし一方で、厳しい批判精神にのっとり、ナチズムを許さず、米国の原爆投下を非難し続け核兵器廃絶を訴えていったギュンター。
そんなギュンターが、あるとき、「ごみ置き場」に、「この葉とぼろで被われた短い毛のはえたものが横たわっていた」(71ページ)ことに気づく。
それは、ネコの亡骸だった。
目を開いたまま、といっても、もちろん、見えているわけではない。
見えていない目が開かれていた。
おそらくギュンターはその「目」を見てしまったのだろう。
何かに焦点のあたってない「目」。
一瞬で、静止し、その後変化のない「目」。
何かに反応することなく、かつて、反応していたであろうことだけを伝える「目」。
そのまま立ち去ることができなくなる。
ギュンターは、しばらくこのネコのそばにいることにする。
「別れ」のために。
ネコに「敬意を表し」、すなわち、このネコのことを想い、「ある」ということについて考えはじめる。
もちろん、抽象的な「ある」ではない。
このネコが「ある」とは、または、「ない」とは、一体どういうことなのか、について問いはじめるのである。
「キミが〈いる〉と言えるのだろうか。キミが〈存在する〉何ものかであると言えるだろうか。――返事はなかった。」(71ページ)
昨日、出会ったときには、「キミ」は、「いた」。
そう、ギュンターは、このネコが生きているときの姿を知っているのだ。
だがその同じネコいが今は、「ない」(「ある」という状態ではない)。
しかし今、「キミ」は「いない」のか、それとも「死骸」が「ある」というのか、どうなのか、と、ギュンターは葛藤する。
いや、それ以上に、その「ネコ」を前にして、どうしてよいのか分からない自分をもてあましているのである。
ひとりごとのあとに「ごめんね」とつぶやくギュンター。
何に謝っているのだろう。
謝りながらも、ギュンターは、「ある」とも「ない」とも「ネコ」とも「それ」とも「死骸」とも言い得ないものとの対話を続ける。
・・・が、「その」上に清掃員はさらにごみを載せてしまい、「それ」を連れ去ってゆく。
もう、「そこ」には、「ない」にもかかわらず、ギュンターは車を追いかけながら、「キミ」に向けて、小難しい話を続ける。
ニーチェのアフォリズムまで登場する。
「私たちは、「生きている」という以外に、なんらかの存在に関する表象をもっていない。――であるから、死んでいるものが「存在」するはずがない」(ニーチェ「権力の意志」582)
またギュンターの父(名高い心理学者)から聞いた話を思い出す(「人格と物」第1巻「目的の力学」に関する章」)。
生命のないものが生命を生み出した、と考えるのは、思い込みである、といったような考えを20歳のときに父から聞かされたという。
・・・そうやって、ひとめぐり考えていたギュンターであるが、ふと気づくと、運搬車からずいぶん離れている。
最後まで、「返事」はなかった。
にもかかわらず、ギュンターは「遠くからもう一度それに載せられたもう存在していないものに向かって手を振った」(76ページ)。
***
私の体験も、内面を語れば、ややアンダースと近いものであった。
ネコと、社会の美しさ――社会美学への招待を読んで(2)
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11816496337.html
ただ、有難いことに、私には、近所の人が声をかけてくれたことで、「私」と「ネコのなきがら」との関係に閉じることなく、「社会」の「美」を考えることができた。
でも、実を言うと私もまた、ギュンターと同じように、その「ネコのなきがら」と心のなかで「対話」していたのだ。
ただただ、それしかできない自分に、少し悲しくて、私も「キミ」に向かって、何度も「ごめんね」と心のなかでつぶやいていたのだった。
今でもその道を通るたびに、「キミ」のことを思い出している。
今「生きている」私が「キミ」にできることは、幾度も、幾度も、「思い出す」ことだと思うからだ。
なぜ無差別大量殺戮は恐ろしいのか――異端の思想(G・アンダースを読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11904573267.html
が、少々、寄り道をしている。
ハンナ・アーレントとの「苦い」思い出を語るギュンター・アンダース
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11909212318.html
ここでは、本書にある、ネコに関するエピソードについて、ふれておきたい。
ギュンターは、かなりの変人、というか、頑迷で屁理屈をこねる男という印象が強い。
世間の常識や決まりごとを一切鵜呑みにするつもりのない男、それがギュンターである。
アレントから「暗い男」と呼ばれ、ハイデガーからも「目立たない学生」と言われたギュンター。
しかし一方で、厳しい批判精神にのっとり、ナチズムを許さず、米国の原爆投下を非難し続け核兵器廃絶を訴えていったギュンター。
そんなギュンターが、あるとき、「ごみ置き場」に、「この葉とぼろで被われた短い毛のはえたものが横たわっていた」(71ページ)ことに気づく。
それは、ネコの亡骸だった。
目を開いたまま、といっても、もちろん、見えているわけではない。
見えていない目が開かれていた。
おそらくギュンターはその「目」を見てしまったのだろう。
何かに焦点のあたってない「目」。
一瞬で、静止し、その後変化のない「目」。
何かに反応することなく、かつて、反応していたであろうことだけを伝える「目」。
そのまま立ち去ることができなくなる。
ギュンターは、しばらくこのネコのそばにいることにする。
「別れ」のために。
ネコに「敬意を表し」、すなわち、このネコのことを想い、「ある」ということについて考えはじめる。
もちろん、抽象的な「ある」ではない。
このネコが「ある」とは、または、「ない」とは、一体どういうことなのか、について問いはじめるのである。
「キミが〈いる〉と言えるのだろうか。キミが〈存在する〉何ものかであると言えるだろうか。――返事はなかった。」(71ページ)
昨日、出会ったときには、「キミ」は、「いた」。
そう、ギュンターは、このネコが生きているときの姿を知っているのだ。
だがその同じネコいが今は、「ない」(「ある」という状態ではない)。
しかし今、「キミ」は「いない」のか、それとも「死骸」が「ある」というのか、どうなのか、と、ギュンターは葛藤する。
いや、それ以上に、その「ネコ」を前にして、どうしてよいのか分からない自分をもてあましているのである。
ひとりごとのあとに「ごめんね」とつぶやくギュンター。
何に謝っているのだろう。
謝りながらも、ギュンターは、「ある」とも「ない」とも「ネコ」とも「それ」とも「死骸」とも言い得ないものとの対話を続ける。
・・・が、「その」上に清掃員はさらにごみを載せてしまい、「それ」を連れ去ってゆく。
もう、「そこ」には、「ない」にもかかわらず、ギュンターは車を追いかけながら、「キミ」に向けて、小難しい話を続ける。
ニーチェのアフォリズムまで登場する。
「私たちは、「生きている」という以外に、なんらかの存在に関する表象をもっていない。――であるから、死んでいるものが「存在」するはずがない」(ニーチェ「権力の意志」582)
またギュンターの父(名高い心理学者)から聞いた話を思い出す(「人格と物」第1巻「目的の力学」に関する章」)。
生命のないものが生命を生み出した、と考えるのは、思い込みである、といったような考えを20歳のときに父から聞かされたという。
・・・そうやって、ひとめぐり考えていたギュンターであるが、ふと気づくと、運搬車からずいぶん離れている。
最後まで、「返事」はなかった。
にもかかわらず、ギュンターは「遠くからもう一度それに載せられたもう存在していないものに向かって手を振った」(76ページ)。
***
私の体験も、内面を語れば、ややアンダースと近いものであった。
ネコと、社会の美しさ――社会美学への招待を読んで(2)
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11816496337.html
ただ、有難いことに、私には、近所の人が声をかけてくれたことで、「私」と「ネコのなきがら」との関係に閉じることなく、「社会」の「美」を考えることができた。
でも、実を言うと私もまた、ギュンターと同じように、その「ネコのなきがら」と心のなかで「対話」していたのだ。
ただただ、それしかできない自分に、少し悲しくて、私も「キミ」に向かって、何度も「ごめんね」と心のなかでつぶやいていたのだった。
今でもその道を通るたびに、「キミ」のことを思い出している。
今「生きている」私が「キミ」にできることは、幾度も、幾度も、「思い出す」ことだと思うからだ。
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