鹿島に入った1年目の2004年シーズン、私は新人ながら、秋田さん(秋田豊)が前シーズンで鹿島を離れたことから即戦力の期待をされていました。しかし、もともと人見知りをするタイプで自分に自信もない私は新しい環境に慣れるまでには時間がかかりました。

1学年11人の中学校から360人の高校に入ったときも、山口の高校から首都東京の大学に出てきたときも、人間関係は別にして、サッカーにおいて自分のリズムでプレーできるようになるまでに1年はかかりました。しかし、プロの世界で大卒の選手にそんな時間はありません。秋田さんが退団されたことはなおさら私に時間があまり与えられないことを意味していました。

案の定、最初の数ヶ月間の練習での私のプレーは酷いものでした。イバさん(新井場徹)が当時の私を見て、「こんな下手な奴がプロになれるの?と思った。」とよく言っていましたが、冗談ではなかったと思います。

大学でプロに入ったときの準備を進めてきたつもりでいましたが、いざ練習に加わると要求のレベルが違う中で周りに合わせようとしても私の不器用さではどうにもなりませんでした。毎日のように大きなミスをしてしまう私は、いつも練習後にロッカールームでシャワーを浴びながら悩んでいました。いろんな先輩がそんな私を見て「おい!大丈夫か?」と声をかけてくださるほどでした。

その年は2ステージ制で、セカンドステージが始まった8月頃だったと思います。私のセンターバックというポジションはシーズン中にはなかなかメンバーを変えるのが難しいポジションです。ベンチを温める日々が続いていた私は方針を変更しようと考えました。

私は勝負の時期をもう少し先の翌年、あるいはその先に置き、まずは今、監督やチームメイトを認めさせることよりも、いつか試合に使って当たり前と言われるような「いい選手」になることを考えようと思いました。そのためにはまず、自分が大学でやっていたようなプレーを100%練習で出すことに集中しようと考えました。私は見かけによらず(?)、とても周りの人のことを気にしてしまうタイプで、それまでの半年間もまずはチームメイトといい関係を築いて認められたいと考えていました。しかしそう考えるあまり、周りがパスを要求したら自分のタイミングじゃなくても出してしまうし、ミスを恐れるあまりに力が入り逆にミスが増えてしまっていました。

私は無理やりにも変わらなければいけないと思いました。そこでまずは演技をしようと決めました。「ピッチに立てばレギュラーも先輩も関係ない。ここはプロなんだから自分が結果を出せばそれ以外のことはついてくる。」と言い聞かせ、とりあえず全て自分の判断でプレーするようにしました。私はその頃それを「無理矢理の自信」と名付けていたのですが、これをもってしてまずは周りに合わせるのではなく、自分がしたいようにしようとはっきり割り切りました。

それによって変化はすぐに現れ、練習や練習試合で自分らしいプレーを出せるようになっていきました。そのように取り組み始めると不思議なことに人生の流れが変わったように感じ、チャンスも思いがけずすぐにやってきました。9月の試合でスタメンのチャンスをもらった私は、その後の4試合で3点取ることができ、チームの好調に合わせてスタメンに定着することができました。

私は、鹿島に入ってきて、少し周りを気にしているようで自分を表現できていない選手にはこの話をするようにしていました。そうするとこの話を聞いた選手はみんなすぐに変化が見えるようになり、その後自然にチャンスをもらっていく選手ばかりです。そうは言っても選手であるうちは紙一重の選手たちとの紙一重の勝負ばかりで、いつもいい結果を得られるわけではなく、これは単なる入り口に過ぎません。しかし、入り口に立ってしまえば今度は自分なりのバランスを見つけていく彼ら自身の勝負であり、そこからは私は一歩引いたところで彼らが階段を登っていくのを見て楽しんでいました。