従軍慰安婦問題・慰安婦高額報酬説のトリック | 誰かの妄想

従軍慰安婦問題・慰安婦高額報酬説のトリック

「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日」に次のような記載がある。

「これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。」


この前半部分から、慰安婦の月収は平均750円で、当時の陸軍大将の月収500円~600円より多かった、という主張がある。

しかし、これにはトリックがある。


まず、この日本人捕虜尋問報告にある内容は1944年のビルマにおけるものである。1943年のマンダレー駐屯地慰安所規定によれば、慰安所の利用には軍票を使用することになっているため、ここでも軍票が使用されていたことは間違いなかろう。

ビルマ方面で使用された軍票は、太平洋戦争開戦当初は海峡ドル軍票、後にルピー軍票が加わり、1943年からは南方開発金庫券、通称:南発券(厳密には軍票ではないが、軍票同様に使用された)に代わっていく。
ちなみにビルマでの軍票は基本的にルピー表示(一部ドル)だが、1942年12月16日の東京朝日新聞の記事「最初は少し混乱したものの今ではすっかり慣れ市場の売子も『ハイ、お釣りを三十銭』とお客の兵隊さんに日本式にやってのけているのは微笑ましい風景である 」に見られるように、公式には1ルピー1円の固定相場であるため、「円」「銭」という表現は現地でも使われている。
つまり、日本人捕虜尋問報告にある料金制度の「兵 1円50銭、下士官 3円、将校 5円」は、南発券での支払いであることが考えられる。

この南発券、実は1943年後半から急速にその発行高を増やしている(19421943年2月9日(2007/6/4訂正)の日本産業経済新聞に賀屋蔵相の「南方券の発行について今その最高限度をきめる考えはない」と言う発言がある)。林博史氏の「「大東亜共栄圏」の実態」 によると、1942年12月に4億6326万円、1944年末に106億2296万円、1945年8月に194億6822万円、と明らかに急増している。なお、日本の占領地域は1942年後半以降は基本的に縮小する一方だったので、占領地拡大に伴う増発でないことは明らか。1944年には戦局は悪化しており南方占領地内の流通が悪化、つまり物不足となっていく。こうした中、日本軍が物資を調達する目的で軍票が増刷され、その結果インフレが生じたわけである。


かといって、駐屯部隊に支給される給料が上がったわけではないと考えられるので、慰安所利用を従来のまま行うには軍が価格統制せざるを得なかったのだろう。
しかし、この場合、被害者は慰安所である。インフレになっているのに価格を固定されていては実質的な減収となるからだ。そう考えれば「多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。」(日本人捕虜尋問報告)の部分が理解できる。


ここで反論として考えられるのは、インフレは戦後になってから起こっており戦時中ではない、という異見。
確かに南発券を大量発行してインフレが生じたなら、固定レートとなっている日本円にも影響が出たはずである。しかし、ここにトリックの肝がある。


1942年5月1日の大阪朝日新聞の記事「南方送金方法大蔵省より指示」に「一、南方占領地に渡航するものの旅費その他の費用は現地に銀行ある場合は原則として信用状、送金為替などの方法によるが銀行がない場合は現地で使用される軍票を内地から携行出来るようにし円札の携行は原則として認められず、円札と軍票との交換比率は近く大蔵省において決定、交換事務は近く日銀本店、一定の支店、代理店などで取扱を開始する 二、南方占領地居住者のうち現地で自活し得ぬものにたいする仕送金は審査の上許可を与える方針で、この場合は銀行経由送金の方法による 」
とあるように、基本的に占領地から内地への金銭送金は許可制で規制されていた。

(訂正2007/4/24:上記は日本から南方への送金に関する記事だったので参照記事を以下に差し替える)「これ等の軍票は何れも在来の現地通貨と等価で流通せしめているが、日本円とこれ等軍票並に各地域の軍票相互間の関係は差当り日本と南方諸地域間並に諸地域相互間の自由な資金交流を認めぬ建前であるため、一般的な交換比率は決定していない」(中外商業新報 1942.4.18)

とあるように、基本的に占領地から内地への金銭送金は規制されていた。


つまり、占領地でだぶついた通貨を内地に入らないようにして、終戦間際まで内地のインフレを食い止めていたと言える。
これを実施するため、「預け合い」というからくりを使っている。

からくりはこうだ。

例えば、財源の裏付けのない状況で日本が軍事費100億円(内地換算)を必要とする場合、通貨の発行数を増やすしかない。

しかし、これをやると物資量に対し通貨流通量が100億円(内地換算)分だぶつきインフレとなる。

そこで、国内の通貨流通量をふやさないように、必要な軍事費100億円(占領地通貨)分だけ日本の銀行が占領地の銀行(この場合、南方開発金庫)に預金をする。これに対し、南方開発金庫も100億円(内地通貨)を日本の銀行に預金する。

預金と言っても実際に現金が動くことはなく、固定レートのためそれぞれの銀行の帳簿に記載されるだけである。


その結果、こうなる。

南方開発金庫に日本の銀行の預金100億円(占領地通貨)

日本の銀行に南方開発金庫の預金100億円(内地通貨)


南方に展開する日本軍は、必要に応じ、南方開発金庫から100億円分の引き出しを行い、占領地に流通させる一方、南方開発金庫には日本の銀行にある預金を引き出させない。

こうすることで内地での通貨流通量は変わらずインフレを防ぐことができた。

しかし当然占領地内ではインフレが進むことになる。(参照:日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票/小林 英夫 、p158(2007/4/25追記:参照先では、中国戦線での儲備券を例にしている))


これが、内地と占領地における円の価値の格差のトリックの正体である。


したがって、内地での陸軍大将の月収500円~600円と占領地での慰安婦の月収平均750円を比較すること自体ナンセンスと言える。


では実際に占領地での750円とはどの程度の価値だったのか?

南方占領地の中心シンガポールでの物価指数は、1941年12月開戦時を100として、1942年12月に352、1944年12月に10766、1945年8月に35000と実に350倍になっている(前掲「「大東亜共栄圏」の実態」による)。1944年初頭のデータはないが、物価上昇率を月11~14%として指数モデルで考えると、
1941年12月( 0ヶ月): 100
1942年12月(12ヶ月): 350~ 482(実際352)
1943年12月(24ヶ月): 1224~ 2320
1944年12月(36ヶ月): 4282~11183(実際10766)
1945年 8月(44ヶ月): 9868~31901(実際35000)
となる。ちなみに言うまでもないが、地域や品目によって物価上昇率は異なっており、例えば米60キロについては1941年12月に5ドルだったのが1945年6月には5000ドルと1000倍(物価指数で言えば10万)になっている。シンガポールのような人口稠密地域では米の需要が高いためであろうが、他の地域は他の地域でそこで産出しない物資が上がったであろうと想像できる。

シンガポールとビルマの物価が同レベル、内地の物価は変化していないと仮定すると、大雑把に1944年初頭のビルマの物価指数は1941年12月を100とした場合、およそ2000程度であると考えられる(1944年は既に各占領地間の流通に支障をきたしており、この仮定が正しいとは言えないが、シンガポールとビルマを比較した場合、ビルマの方がより状態は悪化していると推定できるため、最低限の予測は可能と考える)。

実際、

日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票/小林 英夫

のp179によるとビルマの物価指数のグラフが表示されており、プロットがないため正確ではないが、1941年12月を100として1943年12月がおよそ2000程度である。


つまり慰安婦の月収750円とは1944年初頭の内地換算で38円となる。当時の下士官の月収が約30円で大体これと同レベル(この内地換算38円から「食料、その他の物品の代金」をとられていたことを考えれば実質はさらに下回るかも)と言える。ただし、これにさらに労働条件を考慮する必要がある。単純に売上げ月1500円を上げるには、下士官を相手にしたとして月500人、一月25日として1日に20人に売春しなければならない。一人30分としても10時間の労働であって、かなりきつい労働条件なのは容易に想像できよう。
ここまで過重な労働を強いた背景としては、やはりインフレが考えられる。慰安婦一人月1500円、20人いたとして、慰安婦に渡す分を差し引くと「慰安所の楼主」の1ヶ月の収入は15000円となる。これを上記レートで内地の円に換算すると750円程度になる。結構な金額には違いないが月10%で物価が上昇することを考えると、経営上の不安はぬぐえない(軍人と違い、「慰安所の楼主」は生活物資の購入を市場で行う必要がある)。軍の規定によって料金が据え置かれている以上、「慰安所の楼主」の取れる手段は慰安婦をとにかく働かせることしかなかったろう。もし完全に慰安所が民間で運営されていたなら、金額を上げることや対価としてインフレ軍票ではなく物資を求めることなど現実的な対応ができただろう。


日本の占領政策の無能さと慰安所の軍管理が慰安婦の悲劇を倍化したと言えよう。


ところで、「慰安婦の月収は平均750円で、当時の陸軍大将の月収500円~600円より多かった」という主張は、当時の前借金が500~1000円程度であったことを考えると理屈では2ヶ月で返済できる金額なわけだが、その時点でおかしいと思わないのかね?それとも、返済が終わった後も慰安婦を続けた、とでも考えているかな?「朝鮮人は欲深い」というような差別意識がなければ出てこない発想だけど。