先日、NHKの番組内でお笑い芸人のバイキングが坂本龍馬の手紙を発掘して大ニュースになってましたよね。その手紙の鑑定額が1500万円ともいわれてました。ひぇ~、すごい!今までずっと埋もれていたものが今頃になって表に出てくるのがすごいですよね。僕はそのNHKの番組は観ていないのですが、その龍馬の手紙の内容が気になったので、NHKの「突撃アッとホーム」のHP見てみたら、今回発見された坂本龍馬の手紙の原文と現代語訳が掲載されていました。





今回発見された坂本龍馬の手紙の現代語訳

越前行きの記
十月二十八日福井に到着しました。奏者役(取り次ぎ役)の伴圭三郎が来たので(後藤から)預かった書簡(八月二十五日付松平春嶽宛て山内容堂書簡)を渡しました。直柔(私)の役名を問うので、海援隊惣官と答えました。
その日の夜、大目付村田巳三郎が来て、用向きを問うので、近頃の時勢などを申し上げその上で越前藩(春嶽侯)のご意見を伺い、およそ明白な国論を海外までも聞かせなければならないと考えていることを伝えました。さて、この度こそ私たちも御国論を伺うことを心から願っています。村巳(村田)が言うには、老主人(春嶽)の出京は来月(十一月)二日に決まったが、多忙なのでお目にかかれませんでした。しかし、前条お尋ねのこと(国論を伺いたい旨)は、拙者(村田)より申し上げます。そうなれば、老主人出京後、かれこれ手順もあるでしょうが、将軍家が政権をお返ししたとなれば、将軍の職も共にお返ししなければ、とてもご反省していると申しても天下の人心の折り合いが付きません、と福井藩では考えています、云々。翌二十九日奏者役伴圭三郎が来て、返書を受け取りました。

三十日朝、三岡八郎及び松平源太郎が来ました。但し、三八(三岡)に面会したい事は昨夕村巳に頼み置いたことです。三八は先年、罰を受けて幽閉されており、他国人に面会は堅く止められていたので、藩の政府の議論により、藩主側の中老が差し添えられました。それゆえに、三八が来た時、松平源を見て、「私は悪党ゆえ君側より番人が参りました」と言えば
松平源も共に笑っていました。それより近頃の京都情勢を前後残らず談論し、話し尽くしました。
深くお考えください。三八が言うには、将軍家が真に反省すれば、
どうして早く形を以て天下に示さないのだろうか。近年来幕府は失策ばかりで、その上言葉で言うだけでは、天下の人が皆信じないだろう云々。(行動で示せということ) これより国で用いる金銭の事を論じました。かつて春嶽侯が総裁職(政事総裁職=文久三年=一八六三年)だった時、三八自ら幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情は、ただ銀座局ばかり(本来、金座・銅座・銭座などがあるが機能していないという意味か)で、気の毒がっていました。お聞き置きください。総じて金銀物産等の事を論ずるには、この三八を置いて他に人はいません。

十一月五日京都に帰り福岡参政(福岡孝弟)に春嶽侯の御返書を渡しました。
大よそ右のようなことです。謹言
直柔
後藤先生

近日、中根雪江(越前藩重臣)は、春嶽侯のお供。村田巳三郎は越前に残る。他の家老はかなりの者が京都へ出るとのことです。
再拝再拝 


突撃アッとホームのHP




この手紙は龍馬が後藤象二郎にあてたもので、龍馬が後藤から預かった土佐藩山内容堂の福井藩松平春嶽への手紙を渡しに福井へ訪れた時のことを報告する内容だ。

ちょっと気になったのは、冒頭8月25日付の容堂の手紙を春嶽に届けるのに、福井への到着が10月28日ということ。2か月もたってるやん。いくら江戸時代といっても飛脚とか使えば数日で届けられたと思うんだけど。お偉いさんの手紙だから飛脚なんかには預けられないのかもしれないけど、江戸から明治へ変わろうとしているまさに激動の変革期にやたらのんびりとした情報伝達だなというのがちょっと気になりました。

それと以前読んだ司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では、竜馬のこの時の福井訪問で松平春嶽に謁見するシーンがありましたが、この手紙を見ると春嶽が多忙で実際には会っていなかったことが分かりますね。

この手紙が永い間ず~っと一般家庭のちゃぶ台の下にポンと置いてあったのがとても信じられないです。
いや、すごい!