◆そしてジャズは永遠の命を得た! | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<彼はストーリー・ビルで育った>>


時は1900年代のニューオリンズです。

フランスやスペインの植民地で

南部としては最大の港町でした。



「確かいろいろな文化が

ひしめき合っていたコロですネ。」



そうです。

人種の文化も混ざり合っていまして

当然音楽もさまざまなソースを

得て、


それこそユニークな音楽が

創られるその土壌ができた

といえるかと思います。



「そこで今日ご紹介の

ブルーズ・マンのお話しでしょうか?」



いえ。残念ですが

今日はジャズ・マンをご紹介します。






彼はストーリー・ビルという歓楽街で

生まれました。



彼のお母さんの職業は売春婦。


当然外に出て働いていますので

縁ある家に預けられます。



「音楽との出会いが匂(にお)いますね。」




そうです。ロシア系移民の家に

子守として住み込みます。


その家庭がけして裕福では

ありませんが、

勤勉で、そして音楽好きだったようです。




「いい家族に恵(めぐ)まれたようですね。」



そうです。

彼の音楽に対する真摯(しんし)な姿勢も

そのあたりから育(はぐく)まれたようです。





<<少年刑務所でコルネットに出会う>>



彼は発砲事件をおこします。



歓楽街という場所柄、

当然人間関係も教育のゆきとどいた


清廉潔白な人たちばかりとは

いえないでしょうからネ。」




それで少年刑務所ゆきになります。



「なるほど。」




そこで彼はある転機をむかえます。





「OH!いよいよ音楽人生の

幕開けでしょうか。」



はい。

彼は施設でブラスバンドの加入して

コルネットという

大きいサイズのトランペットに

出会います。



「いいですね。人生のリズムが

こう!少しアップテンポになってゆく

様子がイメージできますヨ!。」





<<ルイ・アームストロング登場!>>




今日ご紹介するジャズ・マンは

ルイ・アームストロングです。



(今日ご紹介するジャズ・マンは
ルイ・アームストロングです。)




歓楽街生まれで

環境はよくありません。


当然つきあうのは

悪童どもとなるワケで


彼も少年刑務所に

送られたりするワケですが、



彼のどんなときでも絶やさない笑顔。


それこそ底抜けの明るさ。


これは彼を育んでくれた

母親であり、元奴隷の祖母であり、

ユダヤ人の家庭であり、

音楽の先人たちだったコトに

他ありません。



そして彼はジャズに

永遠の生命を吹き込むコトになるのです。



                


☆ルイ・アームストロング

出生名:ルイ・ダニエル・アームストロング


(1901年8月4日 - 1971年7月6日)


米国、ルイジアナ州ニューオリンズ生れ。

ジャズミュージシャン(トランペッター, 歌手)。


サッチモという愛称でも知られ、20世紀を代表する

ジャズ・ミュージシャンの一人である。


サッチモという愛称は「satchel mouth」

(がま口のような口)というのを

イギリス人記者が聞き違えたとする説や、


「Such a mouth!」(なんて口だ!)から来た

とする説などがある。


その他、ポップス(Pops)、


ディッパー・マウス(Dipper Mouth)という愛称もある。



彼が生まれ育ったのは、ニューオーリンズの

アフリカ系アメリカ人が多く住む

比較的貧しい居住区であった。


1913年子供の頃に祭りで浮かれ、

ピストルを発砲して少年院に送られた。


その少年院のブラスバンドで

コルネット(少し大振りのトランペット)

を演奏することになったのが、

楽器との最初の出会いとなった。


10代にはニューオリンズのコルネット奏者

キング・オリバーを含むジャズアーティストの

先駆者たちの話しを聞くことで音楽を

覚えた。


その後、町のパレードなどで

演奏するようになり人気者となる。


1923年、シカゴに移りキング・オリヴァーの楽団に加入。

同年、初のレコーディングを行う。


1924年ニューヨークに行き

フレッチャー・ヘンダーソン楽団に在籍。

この時期、ブルースの女王ベッシー・スミスとも共演。



その後シカゴに戻り、

当時の妻リル・ハーディン・アームストロング

(ピアノ)らと共に自分のバンドのホット・ファイヴを結成。


同バンドが1926年に録音した楽曲

「Heebie Jeebies」は、

ジャズ史上初のスキャット・ヴォーカル曲として知られる。



1930年代にはヨーロッパ・ツアーも行う。

第二次世界大戦時には慰問公演も行った。


しかし人種差別が法的に認められていた

当時のアメリカでは、

公演先でも白人と同じホテルへ泊まれない他、

劇場の入り口さえ別々というような差別を受け続けた。



1950年代には「バラ色の人生」

「キッス・オブ・ファイア」等が大ヒット。



1953年初の日本公演を行う。



1956年にはエラ・フィッツジェラルドとも共演。



1960年代、時代がビートルズを代表とする

ポップ・ミュージック一色となる中でも、


「ハロー・ドーリー」はミリオン・セラーとなり、

多くのアメリカ国民に受け入れられた。



1967年「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」

が世界的なメガヒットとなった。



1968年ウォルト・ディズニー映画の曲を取り上げた

アルバム『サッチモ・シングス・ディズニー』を発表し、

ジャンルに縛られない柔軟な姿勢を見せ付けた。



1969年『女王陛下の007』の主題歌に近い挿入歌、

「愛はすべてを越えて」を発表。



イギリスでは1994年に、「ミュージック・ウィーク」誌で、

最高位3位を獲得している。


高い音楽性と、サービス精神旺盛な

エンターテイナーぶりが評価され、

映画にも多く出演した。



代表作はフランク・シナトラや

ビング・クロスビーと共演した『上流社会』や

『5つの銅貨』、『ハロー・ドーリー』等。



その後彼は脳梗塞で倒れ入院。

1970年に病院から退院すると、

すぐに3週間ラスベガスのホテルで演奏を行う。



最後の演奏終了後、彼はバンドのメンバーに

「私はもう演奏できない」と言い残し、


その7週間後ニューヨーク州,

 ニューヨーク市にて(満69歳没)死去。



           (ウィキペディアより抜粋)

______________________________

◆編集後記はこちら
______________________________