◆道化(ピエロ)は未来への道をつないだ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<道化(ピエロ)のこころ>>


この写真をご覧ください。




「え?これはなんでしょうか?」



「何かにおびえているようでもなく・・・。」



そう。



「誰かと言い争(あらそ)って・・・。」



「意見するでもなく・・・。」




そう。



「ただ私の見た印象から申しますと。」


「非常~に。コミカルですよね。」




ハハハっ・・。




「この表情。この写真一枚で、

チョッとしたコピーがあれば、

効果的なポスターが出来上がりそうですネ。」






これが今回ご紹介するジャズ・マンです。


おっしゃる通り、

非常にコミカルで、そう言う意味では

圧倒的なイメージを醸し出しますネ。




それは姿、カタチだけではなく、


18歳でシングル・デビュー以来、


「OH !」


ブロードウェイ・ミュージカルの作曲、


「OH !」


リリースするレコードはヒットを記録、


「OH !」


ラジオはレギュラー出演を続けて、


「OH !」


映画にも出演し、


「OH !」



全米も含めたヨーロッパーツアー

も成し遂げて・・などなど。



彼の音楽的な才能と実績にも

裏付けされています。




「素晴らしいキャリアですネ。」




しかし彼のキャラが圧倒的だったが・・・。


それゆえに、そのキャラの

イメージを変更するコトに

苦労したみたいです。




「それで彼は何をやりたかったのですか?」



ジョージ・ガーシュインの先例にならって

コンサート音楽を作曲したかった

そうなのです。

  

(ジョージ・ガーシュイン)




「確かクラシックからポピュラーまで

作曲を幅広く手がけた方でしたね。」





そうです。

そして彼については、

こういう言葉が残っています。




”あらゆる道化(どうけ)が決まり文句に従って

ハムレットを演ずることを切望する間-


そして、ウォラーはいわゆる

深刻な音楽の主張を持った。”







<<ファッツ・ウォーラー登場!>>



今日ご紹介するジャズ・マンは

ファッツ・ウォーラーです。



(今日ご紹介するジャズ・マンは
ファッツ・ウォーラーです。)




エンターテナーとしての

資質は申し分なく、

作曲家の才能にも長けています。



もちろんピアノについては

いうことありません。



ラグタイムのときの

ピアノの響きが結構淡白に

聞こえることもありますが、



彼は弾くとその軽やかな

調べには気品すら漂います。



そこはやはりクラシックを

しっかりとマスターした

ベースがあったからでしょうネ。



そういえば、

あの叙情的なピアノを奏でる

ジョージ・ウインストンも、


彼のレコードを聴いて

ピアニストを志したとか。



☆ I've Got My Fingers Crossed From "King of Burlesque"(1935)♪

☆Fats Waller / That ain't right♪

☆Fats Waller / Jitterbug Waltz(1942)♪




☆ ファッツ・ウォーラー FATS WALLER


(1904年5月21日 - 1943年12月15日)


アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク生まれ。


ジャズピアニスト・オルガン奏者・

歌手・作曲家・作詞家。



本名はトマス・ライト・ウォーラー

(Thomas Wright Waller)であるが、

大食漢であり太っていたため、

Fats(太っちょ)の愛称で親しまれた。



トーマス「ファッツ」ウォラーは

ハーレム家庭に生まれた。

彼の父はバプティスト教会の伝道者で、

彼の母はピアノとオルガンを演奏した。



彼は6歳でピアノを始める。

そして、エドガー・サンプソンによって

学校オーケストラで演奏した。


彼は14歳で母を亡くしたあと、

ピアニスト・ラッセル・ブルックスの自宅へ引っ越した。

そこで、彼はジェームズP.ジョンソンと出会い一緒に

勉強した。


後に、ウォラーもカール・ベームと

有名なピアニスト・レオポルド・ゴドフスキーから

クラシックのレッスンを受けた。



(カール・ベーム)



(レオポルド・ゴドフスキー)



1922年に18歳でオーケー・レコードから発表した、

「Birmingham Blues」

「Muscle Shoals Blues」

2曲入りシングルでデビュー。



彼はいろいろなブルース歌手を支持して、

レントパーティーの、映画館とクラブのオルガン奏者として

ハウス・ピアニストとして働いた。




1926年ビクタートーキングマシン(後のRCAビクター)

での録音を開始。



最も早い時期の録音は1929年

”Handful of Keys"

"Smashing Thirds”



彼自身の作品の一連のすばらしい

ピアノ・ソロだった。




彼は20代初期の作曲家として注目を引き始めた。

20代後半で作詞家アンディーラザロフと

実り多い


” Hot Chocolates”、

” Load of Coal”

”Keep Shufflin”


3つのブロードウェイのショーに

携わった。





1929年1月、ウォーラーが音楽を担当し、

ルイ・アームストロングが出演した

ミュージカル『Hot Chocolates』が初演される。



同年、シングル「Ain't Misbehavin」がヒット。


その後も「Honeysuckle Rose」

(1934年)等をヒットさせた。






1934年に排他的なビクターとの契約のあと、

彼の刻むリズムと一緒に、長時間に渡る

多産なシリーズの録音を始めた。



それで大いなる名声と "Your Feet's Too Big,"


"The Joint Is Jumpin'" そして

 "I'm Gonna Sit Right Down and Write Myself a Letter”

などのいくつかのヒットを生み出した。




" 1923年にさかのぼることラジオで

レギュラー出演を続けながら、



彼は1935年に”愛とバーレスクの王様のために万歳”の

ような映画に出演し始めた。





彼は1938年にヨーロッパをツアーして、

HMVのためにロンドンでパイプ・オルガンの録音をして、

最初のテレビ放送の1つに出演した。




彼はピアノと打楽器のための彼の最も大規模な作品、

 "ロンドン・スイート"を録音し、



1939年2度目のヨーロッパ・ツアー(悲しいかな、

ドイツとの差し迫った戦争のためキャンセルされた。)

に着手するため、次の春にロンドンに戻った。





30年代にビッグバンドの人気をよく知って、

ウォラーは自分のものをつくろうとした、

しかし、彼らは短命だった。




1940年代に彼の米国のツアースケジュールが

エスカレートし、彼は他のミュージカル”Early to Bed”

に曲を寄贈した。



映画出演は引く続き、彼がベニ-・カーター、

スラム・スチュワート、ズイッテー・シングルトン

を含むオールスターバンド率いた『ストーミー・ウェザー』

が忘れがたい。



1943年、ウォーラーがキャブ・キャロウェイ等と共に

出演した映画『ストーミー・ウェザー』公開。

Fats Waller / Ain't Misbehavin' From "Stormy Weather" (1943)




録音は続けられた、彼は暴飲暴食を続けた。




彼の慰謝料の問題の中心に加えて、耽溺と、間違いなく、

アーティストとして、よりまじめにとられないことへの

欲求不満をプラスして、ピアニストとして疲弊させ始めた。





ようやく、1943年12月にハリウッドのザンジバル室で

ギグの間に病気になった後に、


彼はニューヨーク行きの長い旅のため、

サンタフェ・チーフ・トレインに乗り込んだ。




列車がミズーリ州カンザスシティのユニオン駅で停止の間に

肺炎で死にかけて、彼は決して戻ることはなかった。。





あらゆる道化が決まり文句に従ってハムレットを

演ずることを切望する間-

そして、ウォラーはいわゆる深刻な音楽の主張を持った。



それはジョージ・ガーシュイン

の先例にならって、

コンサート音楽を作曲したいという願いだった。




それは少なくとも20世紀の前半の人種の壁のため

ではなかっただろう。




また、彼がカウント・ベーシー(ファッツと音楽を学んだ)、

テディ・ウィルソンアート・テータム

セロニアス・モンクデーベ・ブルーベック

と無数の他を含む彼の時間、


そして、それ以後のピアニストの長い列に影響したという

事実があれば、彼が後に与えた影響は、本当に深かった。



                  (ウィキペディアより抜粋)

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