◆ワタシは人生は3度生きた! | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<幼い頃はジャガイモの皮をむいていた>>


ブルーズ・シンガー・ソング・ライター

で看護師。


珍しいキャリアですね。



「過去に小作農とか

皿洗いをしていたとか


タレント・スカウトとか

野球をやっていた方も

いましたっけ。」(笑)





「でもダブル・ワークで

看護師とは大変ですね。」





キャリアの時期はほとんど

ダブりませんので

ご心配なく。


今日ご紹介するブルーズ・ウーマンは

不屈のキャリアの持ち主ですよ。




「何やら興味をそそる

フレーミングですね。」



(「何やら興味をそそるフレーミングですね。」)


1920年代にヒットを飛ばし

その後欧米をマタに駆けて

大活躍!



「OH!素晴らしい!」(笑)



50年代で看護師デビュー。


そのとき年齢は59歳でした。



「普通の方ならリタイヤを

宣言する年齢ですね。」




さらに驚くべきことがありました。



「それはなんでしょう?」



その後レコーディング・プロデューサーの

依頼がありまして、カムバックします。



「ちなみにその時の彼女の年齢は・・?」



確か82歳だったかと思います。



「益々もって素晴らしいです。」





<<アルバータ・ハンター登場!>>


今日ご紹介するブルーズ

(ジャズ)・ウーマンは

アルバータ・ハンターです。



(今日ご紹介するブルーズ(ジャズ)・ウーマンは
  アルバータ・ハンターです。)



キャリアだけみても

すごいヒトだな

ということはワカリますが、


ブルーズを歌うのですから

すべてが順風漫歩(じゅんぷうまんぽ)

の人生だったか


というと・・・


そうでもありませんでした。



幼い頃に父親と離別があり、


メイドとして働いていた

売春宿の女将(おかみ)の彼氏や


学校の校長などオトナたちから

性的虐待を受け、


あと売春宿で観た男性像が

トラウマになり、


それがのちに彼女がレズビアンに

なった問題の始まりだったとか。



でもそれが彼女にブルーズを

歌わせる背景を与えたと

いわれています。


「だから彼女の歌声は

ココロに浸(し)みるのですネ。」




そうですネ。


決してキレイな声では

ナイのですが、


その低いハリのあるトーンで


ココロをつかんで

放さない、


説得力のようなモノ

とでもいうのでしょうか?


そんな我々を魅了して

やまない何かがあります。


☆Alberta Hunter Amtrak Blues ♪
             
☆Alberta Hunter "Nobody Knows You When You're Down and Out"♪

            

☆アルバータ・ハンター

(1895年4月1日- 1984年10月17日)

米国、テネシー州、メンフィス 生れ。

ブルーズ・シンガーソング・ライター、看護師。


彼女のキャリアは1920年代初期から始まる。

ジャズ&ブルーズのレコーディング

アーティストとして成功をおさめる。


エセル・ウォーターズ、ベッシースミス

と並び絶賛される。


1921年にニューヨークに移動。

ブラックスワンレーベルでレコーディング。


1921年、パナマウントに移籍し、ベスト音源の多くを

録音する。


1922年から1924年にガーネット、1924年にオーケイ、


1925年から1926年にビクター、 1927年にコロンビア、



1929年はインチのために録音しながら

”ダウン・ハーティッド・ブルーズ”をパナマウントで

インク・ウイリアムズのために書いた。

彼女が受け取った印税は368$だった。



ウイリアムズが秘かにコロンビア・レコードへ録音の

権利を売却した。


1923年彼女の”ダウン・ハーティッド・ブルーズ”が

ベッシー・スミスの偉大なブルース・ヒット曲となった。



彼女はスミスの代りにハウ・カム?のレビューに出演、

アポロ・シアターでも歌った。


彼女の活動はニューヨークでの名声を高め、

キャバレー・シンガーとしての栄光に一役買った。


残りの1920年代を通して、いくつかのレーベルで名前を

変えてレコーディングをした。


1927年彼女は欧州で歌った。

彼女はジャズやショーのスタンダード・ソングを

彼女のブルースやポップ・ソングと調和させるために

レパートリーに組み入れた。



30年代には、彼女は、海外の様々なクラブに出演し、

西ヨーロッパ、中東、ロシア等のコンサートで歌った。



本拠地では、彼女は、ハーレムのコットンクラブに出演し、

ルイ・アームストロングやテッディー・ビル・バンドと共演した。



第二次世界大戦中、Hunterは、多くの時間を海外で過ごし、

USOの援助の元で、中国やブルマ、インド、韓国、

ヨーロッパの国々の軍隊を慰安した。



戦後、彼女は、1956年に引退するまで、アメリカやカナダの

クラブで歌い続けた。


1950年代に引退し、医療活動に入った。



1961年プロデューサーのクリス・アルバートより11年間の

不在を破る提案をし、プレミアム・ブルーズビル・レコード・

アルバムに参加した。”ウィ・トート・ユア・マザー”



翌月彼女は1920年代に録音を共にした、

ルイ・アームストロング、ラヴィエ・オースティンと

リバーサイド・レコードで再会した。



1977年看護師としての人生に終止符をうって、

歌手としてのキャリア再開した。

彼女の歳はそのとき80歳をこえていた。

(ちなみに病院の定年は70歳だった。)



1978年チャールズ・ブルジョワの提案で

グリニッジ・ビレッジのクラブ、

”ザ・クッキリー”で期間限定のギグが提供された。



2週間におよぶギグは大評判になり、

彼女のカムバックを証明した。

人びとはは料理に群がり始めた。



彼女はコロンビア・レコードと契約をした。

沢山のテレビにも出演した。


ロバート・アルトマン監督の映画”リメンバー

マイネーム”のサウンド・トラックとして

彼女に委託された。



”ザ・クッキリー”は夜な夜な満席状態で、


コンサートのオファーがブラジルから

ベルリンまであった。


その中にはワイト・ハウスからの招待状もあった。


復帰は6年間続いた。彼女はヨーロッパと南米、

多くのテレビに出演した。


彼女は新たなレコーディングのキャリアだけでなく

1920年のデビュー当時のブラック・スワン・レーベルの

古い録音が含まれていた事実を共に楽しんでいた。



1984年10月17日に死亡した。(89歳)



2009年”アム・トラック・ブルーズ”が表彰された。



2011年彼女はブルーズ・ホールの殿堂入りをした。


             (ウィキペディアより抜粋)

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