「時間」は存在しない
私達がただの「定義」を、無条件に事実だと信じ込まされていることについて、
「「事実」と「定義」の錯覚、因果関係の逆転、原始的な洗脳 」で書いた。
方向、時間、長さ、お金など、当たり前すぎる事柄が、
実は単なる定義であることを私達は今一度確認する必要がある。
それをしなければ、何かを「考える」ことすら満足にできない。
世間に流通する上っ面の言葉=定義 を追いかけ、
原理や法則、因果関係を知らぬまま、A=B、C=Dのような単純な記号的な対応関係や、
国家が所属集団が強制した用法を丸暗記し、マシーンのように発して生きるようになる。
そのまま概念と言葉の海で漂流し続け、ほとんど何一つ確信を持てないまま死ぬまで過ごすことになる。
今回は、特に大事だと思われる「時間」について書きたい。
まず確認しなければいけないのは、
「時間」というものは存在しないということ。
先ほどの話で言えば、単なる定義の一種である。
時間を裏づけているのは何か考えてみると、
それは、星の動き(日周運動)や季節(地球の公転)だ。 (時刻はそれらを割ったものに過ぎない)
それらの規則的変化のことを時間とよんでいるのだ。
「時間が経てば変化する」とか、「経年劣化」とか、そういった言葉は全く逆で、
時間というものは「変化」がないと把握すらできないのだから、
「変化」こそが事実で、時間はそこから生まれた定義でしかない。
時間という定義が必要なのは、物質同士の「変化」を比較する場合だけだ。
太陽や地球の変化量(周期=年・月)を基準にして、何かの変化を図るということ。
たとえば、人の年齢。
「時間」というのは変化を比べるための定義でしかない。
そもそも、存在もしていないし、人間の感覚でも感じ取れない。
感じ取れるのは変化だけ。
変化を感じ取って時計の時間を推測しているだけなのに、それを「時間感覚」等と名づけ、
時間が絶対的に存在していると錯覚する。
素直に自分の感覚を信じれば、あまりにすぐに分かることなのに、
言葉を詰め込まれ、わけのわからないまま口にしているうちに、何がなんだか分からなくなるのだ。
そして、そんな間違いを前提にして、「時間」を扱おうとする科学とはなんなのか。
過去?未来?タイムマシン?光速を超えれば過去に戻れる?
そもそも存在しないものを行き来することなどどうやってもできません。
私達はただ変化を感じているだけ。
「諸行無常」とはよくいったものです。