麻賀多神社 神代文字縁起の特徴
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 成田市船形に鎮座する麻賀多神社に伝わるとされる神代文字縁起。秘蔵とされるこの縁起に付いては、「印旛郡誌」(大正元年刊行)などに掲載されており、秘蔵といえど比較的ポピュラーな史料となっている。また訳文に付いては印旛郡誌には、その読みに付いてルビが振ってあり、その他神社縁起も参考とした。

     出雲文字
 神代文字の書体に付いては、出雲文字・出雲石窟文字・書嶋石窟文字とも云われる文字で、一般に出雲文字と称される。すでに平田篤胤の”神字日文伝”(シンジヒフミデン)に記されており、「出雲大社の近くに書嶋(フミジマ)と云う島があり、その石窟に彫刻されていた文字」で神代に大己貴命が創った文字とも伝わる。実際には書嶋と云う島は、存在しないそうなのだが、出雲文字で伝えられた文献なども他に知られており、神代文字の主要なものの一つとされている。

出雲文字読み仮名

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出雲文字使用画像掲載許可:サイト 久遠の絆  浦木様


       麻賀多神社 神代文字縁起の特徴

       文字表記上の特徴


 ①出雲文字自体に「ん」の表音文字が欠けているために、”印旛(インバ)→イハ”のようになるため原文を知らなければ、解読するには、かなり難しいと思われる。
 ②濁音・半濁音の区別が無い。元々、平仮名に濁点を付す形式は近世からの形式のため、その書分けは特に難しくない様に思える。
 ③「は」と「わ」の使い分けが混在している。
 ④出雲文字以外に、漢字の「二」。その他、特に数字に関しては本史料独自と思われる①~⑨の文字を使用している。

 内容の特徴
 おおよその内容として「伊都許利命がこの地に来た時に地味が悪いので里長に聞けば、日本武尊が東征の折に、この地に寄って祈りを捧げた。それによって五穀豊穣となり人々を助け、その方法を記したので子々孫々これを守れ。」と言う事らしい。誤字脱字と読解力不足で少々怪しい点もあるのだが、ご指摘いただけるとありがたいです。

 ①文章は大きく分けて「日本武尊の東征」・「伊都許利命が玉を掘出し神社を創建」・「祭祀の方法」の3部にわたる。「日本の神々11」によれば麻賀多神社縁起の内、乾元元年(1302年)の”麻賀多明神縁起”では伊都許利命が創始者として伝えられており、日本武尊の関係を記したものは明和2年(1765 年)に記された”延喜式内奥津宮麻賀多神社”のみであると云う。
 しかし、この文章の中で「トミと言う人が姫の御櫛を奉れば夕日の照る所へ御塚を造らせ」と云う語句と「神鏡を祀り穀雨を降らす」内容が意富比神社(船橋大神宮)に伝わる「意富比神社鎮座伝記」の内容と類似している。この古文書は宝暦5年(1755年)正月の日付が記されており、内容的にもまた年代的にもこの神代文字縁起がこれを参照した可能性は否定できないだろうと思われる。
 ②本文内の”浦長多津命”は嘉元3年(1305年)3月17日の日付のある”太田家系図”(台方・船形神官家)にのみ見られる人物であり、この事はこの文が神官家もしくはそれに近い関係者によるものと推測できる。
 ③本文内に「大宮柱太敷立て」など祓・祝詞に使われる表現があり、神道に対する知識がある人物と思われる。
 ④本文中に葦茅彦遅(あしがひひこぢ)神は、特殊な神であり現在、出口王仁三郎関係の文献でしか見る事が出来ない神名である。


出典:印旛郡誌(1912年刊行)掲載、公津村誌第十章「古史」より。但し原文は縦書きなのを見易くするために横書きに直している。

           続 き