◆ブルーズ(音楽)はいつもワタシと・・・。 | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<本当のワクワクをさがして>>


子供にはやりたいことも

多々ありますが、


あまりヤリタクナイこと?

でも・・・。


ひょっとしたら親に言われて

習慣で?


実は家業で

気づいたらすでにやっていた。



・・・など環境や家族関係で

その環境に身をおいてしまうコトは

多いかと思います。


「すし屋の息子は生まれてから

ずっと親のアトを継ぐコトを

意識するでしょうし、


魚屋、八百屋、会社員の方も

そうかもしれませんね。」



彼女はお父さんが教会の☆助祭

を勤めていた関係上、

歌ったりピアノを演奏したり

していました。





☆助祭とはカトリック教会に

おける教会職務のひとつで

、司祭につぐ職位。




でももっとオモシロイことに

ハマリました。



「本当にやりたいコト。

ワクワクするコトとの出会いですネ!」



そうです。


彼女は地方のヴォードヴィル・ショー

(寄席)やテントショーに

こっそりと参加します。



「そのこっそりとがいいですネ。」(笑)




そこで色々とチャレンジすることで

ブルーズ・シンガーとしての基礎を

構築するコトになります。





<<シッピー・ウォレス登場!>>


今日ご紹介するブルーズ・ウーマンは

シッピー・ウォレスです。



(今日ご紹介するブルーズ・ウーマンは
シッピー・ウォレスです。)



古典派ブルーズ・シンガー

といわれてはいますが、

彼女自身でも作曲を手がけていた

という経歴があります。



「ユニークですね。」



実は彼女には

空白の期間があります。



「それは・・・?

何か原因があるのですか?」





1935年と1936年に立て続けに

叔母と夫と兄を亡くしています。



「それは繊細なココロのアヤ

や感情を表現する

アーティストとしては

キビシイ試練でしたね。」




ええ。

しばらくといっても約40年ほど

表舞台から身を引くコトになります。



「彼女は身を引いて

いったいナニをしていたのですか?」




デトロイトの教会でオルガンを

演奏したり歌ったりしていたそうです。



「表舞台から身を引いていても

音楽は彼女を支え続けていたのですネ!」(笑)



☆Sippie Wallace - Women Be Wise  ♪


 ☆Sippie Wallace & Bonnie Raitt - Women Be Wise♪


☆Sippie Wallace, John Mayall and the Blues Breakers♪              




☆シッピー・ウォレス

(1898年11月1日- 1986年11月1日)

本名:ビューラートーマス

米国、テキサス州 ヒューストン 生れ。


アメリカの シンガー・ソングライター。


彼女の初期のキャリアはローカル・テント・ショー

”ザ・テキサス・ナイチンゲール”への参加だった。


1917年彼女はマット・ウォレスと結婚し、

彼女の名前を変更した。


1923年彼女は兄弟の後を追ってシカゴに移り、

街の賑やかなジャズ・シーンで働いた。


彼女の評判はオーク・レコードとの契約につながる。



彼女の最初の録音は”ショーティー・ジョージ”、

”アップ・ザ・カントリー・ブルース”で

前者は弟のジョージによって書かれた。


セールスは彼女を1920年代初期のブルーズ・スターに

するに充分だった。



その他にヒットした録音は、

”スペシャル・デリバリー・ブルーズ”

(共:ルイ・アームストロング)、


”ベッド・ルーム・ブルーズ”

(詩:ジョージ、ハーサル・トーマス)


”アイ・アム・マイティータイト・ウーマン”

などがある。



1926年彼女の弟のハーサル(16歳)は食中毒で死亡。


1929年デトロイトに移る。


1936年彼女の夫マットと兄ジョージは死亡した。

彼女はデトロイトのリーランドバプテスト教会で

約40年オルガンを弾いて歌った。



1945年"ベッドルーム・ブルース"をマーキュリー・

レコードよりリリース。


1966年彼女はカムバックするまで、時折の興行や

レコーディングを除いてブルーズについては

何も活動はしなかった。



カムバックの理由については、

彼女の長年の友人のビクトリア・スピーベィが



フォーク・アンド・ブルーズ・サーキットへの

参加について上手く彼女を口説き

落としたのだった。



1966年デンマークのコペンハーゲンにて

ハローウィンの夜に”ウ-マン・ビー・ワイズ”

を録音。


ルーズベルト・サイクスとリトル・ブラザー・

モンゴメリーとピアノを共有した。



同年他のアルバム”シング・ザ・ブルーズ”

では自身でピアノを伴奏し、


ルーズベルト・サイクス か

 リトル ・ブラザー ・モンゴメリー

も加わった。


彼女のシグネチャー・ソングの”ウ-マン・

ビー・ワイズ、”ドント・アドバタイズ・

ユア・マン”は


ブルーズ・ポップ・シンガーの

ボニー・レイットをインスパイヤーすることに

なった。


(ボニー・レイットと・・・。)


彼女たちは共に1970年代と80年代にツアーと

録音をした。

二人の接着剤はブル-ズ・クイーンの2つの世代

のギャップを埋める架け橋となった。






1966年彼女はルイ・アームストロングの

アルバムを録音した。



”ルイ・アームストロング・アンド・ブルーズ・

シンガーズ”、


歌にて”ア・ジェラスウーンマン・ライク・ミー”、



”スペシャル・デリバリー・ブルーズ”、


”ジャック・オディアモンド・ブルーズ”


”ザ・メール・トレイン・ブルーズ”、


そして”アイ・フィール・グッド”。




彼女は友人のビクトリア・スピーベィと

スタンダードなオールド・ブルーズのアルバムを

録音した。


シッピー・ウォレス・アンド・

ビクトリア・スピーベィ(1970年)

と呼ばれ、

それはスピーベィ自身のレーベル発だった。



1981年アトランッテック・レコードよりアルバム

”シッピー”を録音。


1983年にグラミー賞にノミネート。



1982年にはベスト・ブルーズ・オブ・イヤーの

WCハンディー賞を獲得した。



彼女のバック・アップ・ブループは

ピアニストのジム・ダポニィーズ・

シカゴ・ジャズ・バンド、


コルネット奏者のポール·クリンガー、

トロンボーン奏者のボブ·スミスと

ラス·ホイットマン、ピーター·フェランから成る。


1966年、1967年彼女は

ニューポート·フォーク·フェスティバルと

ヨーロッパツアーのアメリカン·フォーク·

ブルース·フェスティバルに出演した。



1966年コペンハーゲン、デンマーク 、


1967年シカゴ·ブルース·フェスティバル 、


1972年アナーバー·ブルース·フェスティバル


そして1977年ニューヨークのリンカーン・センター

に出演した。


1982年”ジャミン、ウイズ・ブルーズ・グレイツ”の

ドキュメンタリーで彼女自身で演奏している。



1983年彼女はドイツ人ブギウギ・ ピアニストの

アクセル・ツヴィンゲンバーグと共に

スタジオアルバムを録音した。


彼女は自身の多くの画期的な作曲はだけでなく

古典的なブルーズはもちろん彼のアルバム

ブギー友達のヴォーカルも含めた。


1984年シッピー・ウォレスはアルバムをリリース。

ツヴィンゲンバーグのツアーと共にドイツを公演した。


そこで彼女は今までになかった完全なアルバム

”アン・イブニング・ウィズ・シッピー・ウォレス”

をバガボンド・レコードにために録音した。


1986年ドイツ、ハウゼンのジャズフェスティバルのあと

彼女は重度の発作を起こし、入院。帰国した。


その後デトロイトのシナイ病院で

彼女の88歳の誕生日に死亡した。



           (ウィキペディアより抜粋)

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