真言宗(密教3.33)/真言(マントラ) | 獨と玖人の舌先三寸

真言宗(密教3.33)/真言(マントラ)

宗旨について改めて、もうちょい? 触れておこうかと…( ´・ω・`)_且~~

「密教3/真言宗・空海(弘法大師)・覚鑁(興教大師)」→ http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-11185444499.html

こちらも多数の派閥があるので、根本部分を大雑把に(ΦωΦ)ニャ


真言宗の教えの中心は、“即身成仏”です。
人間が悟りへの心(菩提心)をおこして修行しても、果てし無い永い時間をかけなければ成仏できないと考えられていました。それを、いま現在生きているこの身のまま成仏できると弘法大師は説きました。
大日如来を自分自身の中に確認し、仏と己とが一体になること、そう覚れた状態を即身成仏と言います。

密教は、人間の全容のままを肯定します。その欲望(煩悩)さえも。
「愛欲に飽きることを知らないこと。」
「愛欲が原因で怒ること。」
「愛欲に酔いしれること。」
仏教では、この3つをなかなか抜くことのできない三毒の煩悩と説いていますが、真言宗においては、欲望も怒りも現に存在しているものであり、これを否定することは、「波の外に水を求めるようなものである。」と説いています。
「性の欲望というものは、もともときわめて御し難い、それ故欲望からくる諸々の悪を防ぐには、初めからその欲望を一切否定し、認めないとするほうが、策としては手っ取り早いし、教えにも一応の筋は立つ。それ故に一般の仏教では禁欲の旗を掲げているのだ。しかし、現に生身の人間が住むこの世で、そういう教えが本当に成り立つだろうか。もしも性の欲が一切いらぬ、というなら子孫は絶え、この世から人間というものが消えうせることになろう。」
「この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない。」
「もし、欲が邪魔になるなら、もっと大きな欲で制すればよい。」
「例えば、御仏と同じ一切衆生を済度するという大欲が我々に持てれば、目先の小欲は制することができる、欲の浄化とはそういうことだ。」
「将来、大欲があったお陰で今日の自分がある、と言えるようになれる。」


仏教では、「人間は皆、抜け出し難い業を背負っている。」と捉え、その業(罪)を生み出す元を次の“三業”と説きます。
人間が身体で行った罪(行為の罪)。
人間が口で喋った罪(言語の罪)。
人間が心で思った罪(意識の罪)。
真言宗では、この体・口・心の三業を“業”とは捉えず、“三密”と呼び、これらを使ってこそ仏になれると説きます。
「仏様だけが仏なのではなく、人間も同様に仏であり、本来仏たる資質を備えている。たとえ度量は違っても、他の人には代わってもらうことのできない独自な仏としての役回りを持っている。」
「仏と我々の身体・言葉・意識の三種の行為の形態が、不思議な働きによって感応しあう時、速やかに悟りの世界が現れてくる(= 三密加持)。」
以我功徳力 = 我々の功徳の力。
如来加持力 = 仏の救済の力。
及以法界力 = 両者の出会いの場としての全宇宙のあらゆる力。
“三密加持”とは、この3つが融合しあうことをいいます。
密教において加持とは、
「加」は、仏のお力(ご加護)が修行者の心に映ること、
「持」は、修行者の心が仏のお力(ご加護)をよく感じることです。

真言宗では、
「おん――」
「のうまく――」(仏様に帰依します)
と真言(しんごん、マントラ)を唱えて仏様に救いを求めるのみならず、
「南無大師遍照金剛」(弘法大師に帰依します)
と法号を唱えて弘法大師にまで助けを請います。
これまで記してきたものだけでは、真言宗も“他力”と見受けられますが、真言宗の僧侶の修行は、宗派随一の厳しい行と言われており、それに耐え切らなければ僧侶にはなれないと、その筋の書物に書かれています。すると、“自力”か? と考えてしまいます。
とある僧侶に伺うと、「真言宗は自他力」だとか、「真言宗は三力」とか言われるそうです。上記三密のことです。
真言宗が日常で用いる経典は、他宗派にはありません。また、信者にさえ教えません。
信者には信者用のお経が設けられています。前述しましたが、最澄にさえ貸さなかった“理趣経(金剛頂経)”という密教経典のひとつです。現代に至っては、解説書が一般書として市販され出回っていますが、現実には真言宗の行を熟した僧侶のみが読経を認められます。つまり、真言宗は自分で救われる努力をしなければならないわけです。勉強と、過酷な修行を熟さなくてはいけません。自力です。仏様に助けを請うだけでは、全く救われない教えです。


意味をよく知っている仏教学者が読むお経より、意味がわからなくても、ひたすらに読んでいる僧侶のお経のほうが尊いと言われます。弘法大師は、“声字実相義”という書物の中で、
「音を宗とせば仏果に至す。」
一心に読経すれば、必ずや成仏すると言い切っています。



●真言――
大日経などの密教経典に由来し、真実の言葉という意です。転じて仏の言葉を指しています。真言は音が重要であることから、翻訳せず音写を用います。漢訳では呪、明呪と訳されています。
真言は密教成立以前から用いられており、古代インドから効能がある呪文として重視されてきました。真言を唱えることで、発願を仏に直接働きかけることができるとされています。
真言宗では、心で仏を想い、手で印を結び、三返ないし七返声で唱えています(三密)。

真言宗の“真言”はこれに由来しますが、真言宗のみで使われているものではありません。般若心経の最後にある「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」も真言であり、浄土真宗などを除く多くの宗派で読まれています。禅宗においては、消災妙吉祥陀羅尼(しょうさいみょうきちじょうだらに)や大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)などが日常的に唱えられます。
真言には、それぞれ出典となる経が存在しますが、同じ密教経典でも成立の過程が異なる大日経 (胎蔵界) と金剛頂経 (金剛界) では、真言が異なります。

※般若心経「ガティー ガティー パーラガティー パーラサンガティー ボゥディスヴァーハ」
・日本では「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか」
・意訳「往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 自他共彼岸に往きついた 悟りは成就した」

※浄土真宗は、他所、外の流れを忌む宗風を持ちます。日蓮宗にもやや。

真言は、日本には漢字や梵字で書かれたものが伝わりました。
一部を紹介しておきます。
・如来
釈迦如来――ノウマク・サンマンダ・ボダナン・バク
・金剛界
大日如来――オン・バサラ・ダトバン
阿弥陀如来――オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン
・菩薩
勢至菩薩――オン・サンザンザン・サク・ソワカ
虚空蔵菩薩――ノウボウ・アキャシャ・キャラバヤ・オン・アリキャ・マリボリ・ソワカ
馬頭観音――オン・アミリト・ドバンバ・ウン・パツタ・ソワカ

※「午歳3 (馬頭観音・勢至菩薩)」→ http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-11090401657.html は真言宗の真言。天台宗の真言は「おん さんさんさく そわか」。
・「虚空蔵菩薩(丑・寅)/乙丑(天神4)) → http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-11143232597.html で記したのは天台宗の真言。短い方を記載しました<(≧ε≦)テヘペロ!


※マントラ――
サンスクリット語では、正しくは文字や言葉を意味しますが、宗教概念により、讃歌、祭詞、呪文、祈りを指す言葉となっています。
短い呪文を繰り返し唱えることで、マントラにおいて、良いことをより多くしている人には白い道が、
悪いことをより多くしている人には黒い道が見えることがあるといいます。
黒い道が見えるということは、より悪に傾いている生き方からの回心を意味しているそうです。

呪文、呪術、呪法という言葉は、意図および結果の善悪に関わらず用いられます。悪意をもっている……不幸を望んでいる……悪い意味で用いる場合は、そのまま“呪い”という言葉が用いられます……((((((○□○;)





前半の解釈を、あえて終わりに持ってきました(v^―゜)
「仏様だけが尊いのではない。すべての人も同様に尊いのである。」

「自分の中にこそ仏がいると知るべきである。」

「本当の自分を知るということは、仏の心を知ることである。」


「自分の中に宝を持っていながら、自分の宝を知らない。」