明治以降はなくなった慣習だが、幕末まで天皇の昼御膳は毎日「鯛」の塩焼きだったことは今ではあまり知られていない。

 幕末の宮廷の様子は、公家の日記などにより伝えられている。

 宮中での昼御膳は午の刻(正午)。

 御膳は板元(いたもと)で用意され、吟味役が毒見を兼ねた味見をし、御膳番が御膳を並べ、複数の女官の手を経て天皇に御膳が献上される。

 膳が済むと、今度は逆の経路で御膳が戻されたという。

 そして、天皇の昼御膳に、一日も欠かすことなかったのが鯛の塩焼きだった。

 しかも、その鯛の大きさは目の下一尺(約30㎝)と決められていた。

 かなり大きい鯛である。

 鉄道の無い時代に、大阪湾から京都まで鮮魚を運ぶのは大仕事だったに違いない。

 鯛の塩焼きは、白木の三方(さんぼう)に載せて天皇の御前に運ばれた。

 その様子は、神主が神様にお供えものをするのと似ている。

「天皇の前に鯛をお供えする」と考えた方が分かりやすい。

 では、なぜ天皇の昼御膳は毎日鯛だったのか。

 それは決して贅沢のためではなかった。

 鯛は「めでたい魚」であり、鯛を食べることが吉事であると考えられていたからだ。

 そして、天皇が吉事を行うことは、国民に幸せをもたらすと信じられていた。

 今でも正月に鯛を食べる家がある。

 これは、正月に「めでたい魚」を食べることで、一年が幸せになると信じられていたことによる。

 このように、国民は年始だけハレの状態を意識すればよいが、天皇の周辺は年間を通してハレの状態を保たなくてはならない。

 天皇の周辺は毎日常にお正月状態であることが求められていた。

 したがって、毎日鯛をお召し上がり頂くことが、天皇の重要な務めの一つだったことになる。

 それも、天皇自らの幸せではなく、国民の幸せのためだった。

 反対に、不吉なものが天皇に近づくことは、国民が不幸になることを意味するため、絶対に避けなければならなかった。

 今でも不吉なものは「穢れ」といわれ、宮中では特に忌み嫌われている。

 ところで、明けても暮れても鯛ばかり食べ続けるのは辛いものであろう。

 しかも、目の下一尺の鯛は、とても一人で食べられるものではない。

 しかし、天皇の残飯は、毎日御末という位の低い女官が拝領して、全て家に持ち帰っていたため、無駄になることはなかった。

 幕末にはおよそ7名の御末がいて、最年長者が多めに取り、残りを6名が均等に分け、それぞれ自分の家族や親族に分けたという。

 京都の町には、天皇の残飯を楽しみにしている人たちがいたのだ。



(『月刊食生活』食生活 平成23年5月号 連載「和の国の優雅な生活」に寄稿した記事です)


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