国司・国等級 | 獨と玖人の舌先三寸

国司・国等級

※「名前2――名2」のおまけでしたが、長いので(*≧m≦*) 分けました。


●国司――
こくし(くにのつかさ)は、古代から中世までの、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指します。
日本書紀には、大化の改新時の改新の詔において、国司を置いたことが記録されています。この時、全国一律に国司が設置されたとは考えられておらず、また当初は国宰(くにのみこともち)という呼称が用いられ、国宰の上には数ヶ国を統括する大宰(おほ みこともち)が設置されたと考えられています。大宰府という名称はその名残だとか。

その後7世紀末までに令制国の制度が確立し、それに伴って国司が全国的に配置されていきました。
大宝元(701)年に制定された大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織である国郡里制に編成され、中央集権的な律令制が布かれることとなります。律令制において、国司は非常に重要な位置に置かれました。
律令制を根幹的に支えた班田収授制は、戸籍の作成、田地の班給、租庸調の収取などから構成されていたわけですが、これらはいずれも国司の職務でした。このような律令制の理念を、日本全国に貫徹することが国司に求められたのです。

鎌倉時代。国司は存続していましたが、幕府によって各地に配置された地頭が積極的に荘園、そして国司が管理していた国衙領(こくがりょう。公領、公田、国有のことです)へ侵出していきました。当然これに国司は抵抗しますが、地頭は国衙領を占領することで、徐々に国司の支配権を奪っていったのです。

室町時代。守護にいくつもの大きな権限が付与されました。この権限は、国司が管理する国衙領においても強大な効力を発揮し、結果、国司の権限が大幅に守護へ移ることになります。
そうして国司は名目だけの官職となり、実体的な支配は守護(守護大名)が執行するようになりました。ここに至り、国司は単なる名誉職となり、被官される人物の実効支配地に関係なく任命されます。戦国時代の武将などは国司を自称、あるいは僭称する者も多くいました(百官名)。

戦国時代。政治の実権が幕府等の武家にあるうちは単なる名誉職に過ぎなかった国司ですが、下克上が頻発し、守護や守護代等の幕府役職者以外の出自の大名が、自国領土支配もしくは他国侵攻の正当性を主張するために、任官を求める事が増加しました。国司職を求めて戦国大名が朝廷へ盛んに献金などを行ったのです。これは、天皇の地位が再認識される契機ともなりました。

安土桃山時代。豊臣秀吉が関白となったことに伴い、国司の称号は武家の地位・権威を示す武家官位へと変質し、完全に名目だけのものとなります。

江戸時代。大名や旗本、一部の上級陪臣が幕府の許可を得た上で、家格に応じて国司名を称することが行われました。しかしやはり、これらの「名乗り」は名目上のものに過ぎなかったため、同時期に複数の人物が同じ国司名を名乗ることが非常に多かったのです。

明治時代。律令制度の廃止とともに国司は廃止されました。



●国等級区分――
各国は国力等の経済上の基準で大国(たいこく、たいごく)・上国(じょうこく、じょうごく)・中国(ちゅうごく)・下国(げこく)の4等級に区分され、この各区分ごとに適正な納税の軽重が決められました。この区分は各国の国情、時勢により変動しています。また、国司の格や人員も(親王任国を除き、大国の守は従五位上だが上国の守は従五位下、中国の守と大国の介は従六位下、中国・下国には介は置かないなど)これに基づきました。
延喜式が策定された10世紀ごろの各国の等級です。

大国(13カ国)――大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・下総国・近江国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国。
上総国・常陸国・上野国、以上は親王任国。

上国(35カ国)――山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国・美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国。

中国(11カ国)――安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国・石見国・長門国・土佐国・日向国・大隅国・薩摩国。

下国(9カ国)――和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国・対馬国。