【60カ月目の福島はいま】続く葛藤。「原発事故は終わっていない」〜中通りの3.11 | 民の声新聞

【60カ月目の福島はいま】続く葛藤。「原発事故は終わっていない」〜中通りの3.11

未曽有の大震災から丸5年となる11日、福島県中通りの人々に5年目の想いを聴いた。4年後の東京五輪を見据える安倍晋三首相は、避難指示解除と帰還促進で「復興」をPRしたい構えだが、放射性物質の拡散に翻弄され続けてきた人々は、依然として被曝のリスクと安全安心とのはまざで葛藤が続いている。国際的行事に向けて、為政者が目論む原発事故の被害隠し。自民党支持者ですら「おごっている」と怒る様子に、安倍政権の被害者切り捨てが垣間見えた。



【絡み合う「過去形」と「現在進行形」】

 「私の中ではまだ、原発事故は終わってはいないわね」

 東北本線・安積永盛駅にほど近い、阿武隈川の河川敷。元保育士の女性は、1歳の孫を抱きながら散歩の足を止めて言った。原発事故で、約60km離れた郡山市にも放射性物質が降り注いだ。当然、勤めていた公立保育園は大混乱に陥った。

 「放射線に対する見方が保護者によって様々ですから、各家庭にアンケートをとって個別に対応しました。それはそれは大変でしたよ。15分間、30分間の外遊びをするかしないか、外遊びをする際には土を触らせて良いか、飲み水はどうするか…。お母さんの中には、外遊びには参加させるが、部屋に戻る際には手を洗うだけでなく服を全部着替えさせて欲しいと求める人もいましたから。まったく、地震だけなら良かったのに余計なものまでついてきて」

 「余計なもの」のおかげで、保育だけでなく「測定」が業務に加わった。保育園に出勤すると、敷地内数カ所の放射線量を測って市に報告した。「玄関も測って欲しい」と保護者から求められ、数値が高い場合には水で洗い流した。それでも低減には限界があった。定年退職するまでに何回か異動したが、異動元の保育園より何倍も放射線量が高いこともあった。「線量計が壊れてしまったかと思うくらい高かった。場所によってずいぶん違うんですね」と振り返る。

 おばあちゃんの腕の中でおとなしくしている男の子は、マスクはしていない。「たしかに、特別なことはしていません。でもね、やっぱり心の中には『大丈夫かな』という不安はありますよ。こうやって預かる時には洗濯物を屋外に干さないようにしていますしね」。

 会話の中で、過去形と現在進行形が複雑に絡み合う。安倍晋三首相の言う「復興」という言葉だけでは片付けられないのが、原発事故なのだ。
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(上)孫と散歩をしていた元保育士の女性。「5年経った

けれど、まだまだ原発事故は終わっていない。孫

健康に悪影響が出ないか不安はある」と語った。

(下)手元の線量計は0.25μSv/hだった=郡山市笹川


【「自民党はおごっている」】

 福島市の父親(47)は、5回目の「3.11」を感慨深く迎えていた。わが子の通う小学校でPTA会長を務めてきた。あれ以来、卒業式の祝辞では、大震災や原発事故には一切、触れて来なかった。子どもたちの心の傷を考えると言えなかった。それが今年、ようやく「震災」という言葉を使うことができた。しかし、原発事故にまで言及することは、出来なかった。

 「完全に廃炉作業が終わって、住民が戻れるようになったら語れるかな。その頃、僕が生きているか分からないけれど。子どもたちには、大人の都合で本当につらい想いをさせてしまった。外遊びが出来ない、運動会も中止、友人との別れ…。それぞれの家庭で様々な選択をしている今、まだ原発事故に触れることは出来ないですよ」

 商売上のつきあいもあって、自民党を支持してきた。しかし、公共事業重視の復興政策には「自民党はおごっている」と怒りを口にした。

 「首相は復興、復興とばかり繰り返すし、大臣も軽はずみな発言が多い。あまりに現場を知らなさ過ぎるよね。俺たちの言葉に聞く耳を持っていない。まだ原発事故は終わっていないんだから」

 浪江町から二本松市に避難している50代の女性は、ようやく慣れた避難先での生活と故郷への想いとのはざまで、複雑な思いで黙祷を捧げた。

 東北本線・二本松駅前の市民交流センター。女性は1階の喫茶店で働く。精神障害者のための就労支援の場も、原発事故の被害者だった。喫茶店は間もなく、開店10周年を迎える。「浪江で5年、二本松で5年だわね」。女性は笑顔で話すが、放射性物質の拡散に翻弄されてきた5年間だった。

 町内の防災無線が全ての始まりだった。「総理大臣の命により…」。事態が深刻であることは、それだけで分かった。すぐに家族を車に乗せ津島地区へ。まだ国道114号線は渋滞していなかった。しかし、同地区は後に、浪江町内で最も汚染の酷い地域だと分かる。女性は家族とともに二本松市内に移動した。

「しばらくは仮設住宅に住んでいたけれど、狭いし圧迫感に耐えられなくなってしまってギブアップ。今は民間借り上げ住宅に住んでいます」

 安倍晋三首相は10日の記者会見で、帰宅困難区域以外の避難指示を2017年3月末までに解除する方針を打ち出した。女性の住んでいた町営住宅は、居住制限区域(年20mSv~50mSv)にある。避難指示が解除されれば、現在は無償の家賃負担が発生することになる。戻るか、自力で現在のアパートに住み続けるか、復興住宅に入居するか。選択を迫られる。

「しばらくは帰らない。二本松は良い所。でもね、浪江町にも愛着はあるのよ」

 女性に5年の「節目」など無い。

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(上)浪江町から二本松市に避難している女性。

住み慣れた故郷を想い、黙祷した

(下)二本松駅前の智恵子像。原発事故後の「空」は、

どのように映っただろう


【「避難する必要あるのかねえ」】

 もちろん、無関心を口にした人もいた。

 須賀川市の女子高生(18)は「原発事故当時は、あまり外出するなって親に言われたけど…あんまり原発原発と言われたくない」と話した。同じく須賀川市に住む専門学校生(19)も「あの頃からずっと、全く心配していなかった。だって、被曝量ってレントゲン撮影1回分より低いんでしょ?」とうんざりした表情を見せた。
 白河市の男性(59)は、幼稚園に通う孫を横目に「あの頃はこの子も1歳だったし、なるべく外の空気に触れさせないとか食事に気をつけるとかしていたけど、今はもうねえ…」と苦笑した。

 原発事故を受け、慌てて線量計を購入した。自宅の庭は0.8μSv/hあった。それでも「同じ町内で、高校生の娘を連れて京都に移住した人がいたんだよ。そこまでする必要があるのかねえって当時から思っていたよ」。ガラスバッジでの測定もしたし、と男性が口にすると、すかさず孫が笑顔でこう言った。

 「僕のガラスバッジ、壊れちゃったんだよ」

 これには男性も苦笑するしかなかった。

 それぞれの3.11、それぞれの原発事故。

 福島にとどまった人も県外に避難した人も、今日で原発事故が終わるわけでは無い。

 東京五輪とは全く無縁の現実が、ここにはある。


(了)