もうなんか、スタートが出遅れですんで、急いで、手短にいきますけど、第二次大戦太平洋方面で、一番の地獄、特に、日本軍にとっての地獄…と言ったらインパール。インパールと言ったら地獄…というように、あまりに悪評高い、日本軍による「インパール作戦」。
実は、最近読者になっていただいた、ソウルメイトさんの記事「馬鹿な大将、敵より恐い」を読ませていただきまして、あらためて、自分でも世間に出回っている、凄まじい「悪評」の数々の実態を確かめたくなりました。
ソウルメイトさんの記事は、とてもしっかりと書かれていて、もうそれだけで伝わるものがあります。
とはいえ、まあ、ここは、ボク流、ビジュアルも入れて、まあ、毎度おなじみのプレゼン形式で、やらせてください!!
ネタ元は、例によってWikipedia、そして、
↑数々の賞を受賞した、1994年の、NHKのドキュメンタリーをあわせて、構成してみます。
まあ、要はですねー、太平洋戦争も終盤の1944年(昭和19年)3月に、日本軍は、ビルマ(現在のミャンマー)まで進出していたので、もう一歩前進して、インドまで攻め込もうとした作戦なんですよ。
↑大東亜共栄圏の構想図ですが、左上の中国は、占領できてないし、右側の海の部分は、ミッドウェイ以降は、ほとんどアメリカのものとなってしまった昭和19年ですよ。
↑なので、全体的にヤバくなってきた状況の中、せめてビルマ方面で1勝をあげて、米英をギャフンと言わせ、なおかつ、インパール占領で、米英よる中国への補給ルート(いわゆる援蒋ルート)をつぶし、中国を一気にやっつける…という壮大な構想だったんですが…。
↑黙々と、2000メートル級のアラカン山脈を登る日本軍のみなさん。
この中の、実に3割強が、戦死。さらに4割はマラリアや負傷という\(゜□゜)/
実に10万人を動員したこの作戦は、当初から、2000m級のアラカン山脈を越えて進撃するなど、過酷な道のりだった上に、必要な食料・弾薬などの補給能力は、必要とされる補給量の10分の1しかなく、さらに、実際、作戦が始まると、当初の目論見も崩れ、5月も末になると、雨季も始まって、最前線は、飢餓とマラリアと赤痢とイギリス軍の銃弾、砲弾で、もう単なる地獄…。
↑当初の補給プランも、大本営の決定の段階で、2割以下になってしまう(((゜д゜;)))
作戦には、3個師団(一個師団は約2万人弱)が参加したんですが、そのうちの一つ、第31
師団の佐藤師団長という人が、ついに、日本帝国陸軍始まって以来の、独断による撤退を始めちゃうという、前代未聞の事態、いわゆる「抗命事件」が発生するんですよ( ̄□ ̄;)!!
まあ、自分の部下が、骨と皮だけになり、
生きたまま、体にウジがわくような状況を見れば、
普通そうするよな…。
で、結局、作戦は中止となり、死者3万人、傷病者4万人を出し、日本軍は、逆に、ビルマを維持することが出来なくなって、タイに向かってひたすら退却…で終了という…。
今日はちょっと時系列を無視して話を進めますが、やはり、この作戦の言い出しっぺであり、そして、撤退した佐藤師団長に向かって、こういう発言↓
「諸君、佐藤烈兵団長(佐藤師団長)は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」
をされたことで、あまりにも有名なのが、この方↓
あまりに有名な、ある意味神の、牟田口さん…。
実はこの牟田口さん、ボクも知らなかったんですが、日中戦争のきっかけとなった、盧溝橋事件のときの、現場の連隊長。つまり、中国との泥沼の戦争を1937年(昭和12年)に始めたのはこの人。
そして、1941年(昭和16年)12月8日、米英との戦争となり、イギリス軍が占領していたマレー半島に最初に上陸したのもこの人(当時師団長)。
さらに翌年、シンガポールに一番乗りしたのもこの人だっだという、つまり、自他ともに認める、大東亜共栄圏の切り込み隊長ですよ(((゜д゜;)))
でもって、ビルマまで突っ込んだとき、イギリス軍があまりにさっさと退却したんで、2年後の、このインパール作戦でも、英軍8個師団が待ち構えるインパールに2個師団、インパールの北方のコヒマに1個師団(この師団長が佐藤さん)で切り込んだというо(ж>▽<)y ☆
↑これが恐怖の作戦図。佐藤師団長のコヒマへの進撃は成功したが、そこで補給終了(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)
第15師団と、第33師団は、食料もねえ、弾もねえ、個人用陣地(いわゆるタコツボ)に入って、イギリス軍の砲撃にひたすら何日も耐えてると、陣地の底にたまった水で、足が膨らんで腐ったそうな( ゚ ▽ ゚ ;)
↑あまりに有名な、天才・牟田口くんの「ジンギスカン作戦」の結末。
つまり、ビルマの農家から数万頭の牛や羊をかきあつめ、荷物を運ばせた後は、
食肉用にするという( ゚ ▽ ゚ ;)
しかし、作戦開始後すぐ、チンドウィン河を渡るとき、
牛の半分はおぼれ、荷物とともに消滅(((゜д゜;)))
そして、この人の証言によると、河を渡った牛は、山道でぐったりしてしまい、動かなくなったので、兵士が、食事用の、携帯の固形燃料を使って、牛のお尻を火であぶり、「モォォォォ!!!!」と立ち上がったところを、前に引っ張ってたとか、モォームチャクチャですがな…Y(>_<、)Y
険しい山道となり、残った牛も、斜面から落ちたり、英軍の爆撃でパニクって、荷物ごと逃げちゃったりし、ほぼ全滅。
そして、トラックが通れないほどの道となり、分解して、みんなでかつぐことになったという…。
まあ、ボクなら、この時点で、心が折れますね。(´д`lll)
↑5月以降の補給状況を語る、当時の輜重兵(補給部隊)の人。
「たったこんだけです。手のひら一杯分なんです。お米の一日分が…。」
「あのね、一日分っていうのは、小隊全員、100名の一日分ですよ!! 私の部下はね、『あ、今日は5粒もあるぞ!!』なんて言うてね…。」
(当時のBBCラジオ実況録音より)
「放送をお聞きの皆さんには、ショックでしょうが-、」
「この奇妙な敵、日本との戦いで、よくある光景をお伝えします。」
「日本兵の自殺です。男が手榴弾で自爆しました」
「やがて、ハエがたかり、まったくひどい光景です。」
それとも、生きて体にウジがわくような状況に耐えられなかったのか?
それは謎…。
そして、英軍は、倒れている日本兵を見ると、生死にかかわりなく、その場で、火炎放射器で焼き払ったという…。
それは、自分たちへの疫病の感染を防ぐためだったと…。
明らかに国際法違反だけど、実際、この後、ビルマに突入した英軍も、約9万人のうち、5万人の戦病者が発生し、多くが死亡したという…。医療品を十分装備した英軍でも、この地域の雨季の恐ろしさに勝てなかったという…。
でもみなさん、この話で、一番凄いと思ったのは、佐藤師団長、牟田口のその後…。
その手記においては、牟田口はじめ、軍の上層部について、
「馬鹿の4乗が」
「インパールの悲劇を招来したのである」
この場合の、馬鹿の「4乗」というのは、
と、こ、ろ、が…。
実は、この時代の師団長というのは、形式的ではあるにせよ、天皇から直接任命される「親任職」なので…。
佐藤師団長の責任を追及すると、天皇にまで責任が及ぶのでは…、という、上層部の判断により…。
佐藤師団長の「処分」はうやむやとなり、終戦まで、閑職を転々とさせられて終了。
そして牟田口は、
一ヵ月後には予科士官学校校長としてカムバック!!!!(・∀・)
ま、お咎めなしっていうことですか┐( ̄ヘ ̄)┌
結局、天皇というブラックボックスを使って、すべてをうやむやにする恐怖の超無責任システムが、見事に作動して、まあ、佐藤師団長は命拾いした面もあるでしょうけど、法廷で決着を付けたいという彼の志は、空振りとなって、さぞ無念だったと思います。
なので、死んだ兵士の無念も、大日本帝国の時代では、宙に舞ったままだった。
そして戦後も生き残った牟田口は、なんだかんだゆって、責任逃れをし続けたそうです。
まあでも、日本軍の中にも、佐藤さんのような人がいたということがわかっただけで、少し救われたかな…('-^*)/
おまけ
牟田口は、作戦開始にあたって、アラカン山脈をながめ、こう言ったという…。
「みろ、あの山々は、あんなに青々としているぞ! 日本人はもともと草食動物である!! あんな青々とした山で、餓えるわけがない!!!!」