2年半ほど前から、わけあって、作家の生活を観察し記録することになった。

美学教授、黒猫の付き人としての業務の合間を縫ってだから、24時間ずっとというわけにはいかないけれど、時間の許すかぎり、森晶麿というミステリ作家に密着した。なかなかたいへんな仕事だった。

はじまりは2014年。この日、森(と記すことにする)は早川書房の編集T嬢と電話でやりとりをしていた。

T嬢「今度はいったん黒猫シリーズ以外のものをやってみてはどうでしょう?」

森は2014年の段階で、黒猫シリーズを5作書いている。もともとデビュー作の次に黒猫じゃない作品を出そうとしていたくらいだから、森は当然この依頼に喜んでいた。

森が電話を切ったのを見計らって、尋ねてみた。

「何を書く予定なんですか?」

「んん、わからない。でもあれかな」

「あれ…?」

「そう、あれ。椅子使い」

「椅子使い? 何ですか、それは」

話を聞けば、森にはデビュー前から「椅子使い」という単語が頭から離れないらしい。ただ、何度かプロットを立てたものの、どうにもファンタジーやおとぎ話にしか昇華できず、お蔵入りになっているという。

「それを今回やるんですか? でも、森さんはミステリ作家ですよね? ファンタジーのプロットを出したら、T嬢はきっと困りますよ?」

「うーん、わかってるよ。だから何とかミステリにしようと……」

「ほかのアイデアではいけないんですか?」

「いいんだけどね」

「何か、黒猫以外のイケメン探偵を創出するとか……」

するとそこで森がこちらを睨んだ。

「それはよそでもやってるよ。でも、そもそも、探偵があって謎があって推理があって解決っていう形式自体が、なんていうか自動車にボディかぶせないでモーターとかエンジンとかまるみえ状態で部品について褒め合ってる感じで嫌なんだよね」

よくわからない譬えだ。作家のくせに譬えが下手って致命的なのではないか、なんてことはもちろん口が裂けても言わなかった。

「ボディをかぶせないっていうか、それが推理小説なんじゃないでしょうか? 純粋形式の文学といいますか」

「うん、そうだね、そういう考え方もある。でも僕はたぶんそこを目指してないんだと思う」

「というと?」

「理想は、本を読んでいる間、次の展開、そのまた次の展開が気になってページをめくってしまい、読み終えてみると結果的にミステリだったことに気づいて『おお…』というやつ。はじめに思いきり『はいこれが引きの謎ですよ~』って感じで提示されて、『さあこれをみんなで推理していきましょう』っていう展開は何だか、ページ飛ばしたくならない?」

「んん、私はそういうものも好きですからねぇ。ていうか、黒猫シリーズってそういう小説ではないかという気が……」

「あれは、人によっては君と黒猫の恋愛部分だけ楽しんでくれればいいように書いてるからね」

「あ、そうだったんですか……」

言いながら頬が熱くなってしまう。恋愛部分だけ、とか面と向かって言わないでほしい。

「それで、『椅子使い』なら、その森さんの目指すミステリが可能かもしれないと考えているんですね?」

「いや、可能かもしれない、とも思わないけどさ。ただなんていうかね、また黒猫に変わる名探偵をひとつ別で作る、とかそんなことならわざわざ書く意味はないんじゃないかという気がするんだよね。あとペダンティックとかそういうのが売りになるのもいい加減卒業したほうがいいと思うんだ。恋愛要素とかキャラとか衒学とか、ぜんぶモーターとかエンジンみたいなものでさ、パーツを褒められてるみたいでいやなんだ。そういうんじゃなくて、物語をきちんと書きたい」

「でも、いまの森さんはやっぱりキャラを求められている気がします」

「わかってるよ。だから悩んでるんだよ」

この会話の数日後、壮大な「椅子使い」のプロットが出来上がった。「あや子と椅子と椅子使い」というのがそれだ。しかしこれは間もなくボツになる。ミステリ部分が弱いということと、物語として盛り上がりに欠けるというのが理由だった。

しかし、森の意気消沈ぶりが激しかったかというとそうでもなかった。

「まあ、だろうとは思ったよ。まだ時期が熟してなかったんだろう。でも前より良くなってる。何より、ファンタジーではなくなったしね。それは『椅子使い』にとって良いことだったと思うよ。今回は出番がやってこなかったけど、今後も僕の頭のなかで調整を続けていく。二軍で投げ続けるピッチャーみたいにね」

いちいち譬えが妙だな、と思ったけれど、それも口にはしないことにした。

その晩、森は夢をみたらしい。少年が女の子にナイフを向けられ、「やれるもんならやってみなよ」と不敵に微笑んでいる夢。その夢に出てきていたのが、華影忍だったのだそうだ。

そうして、上京した際、森は夢のスケッチを軽くT嬢に話し、これを黒猫シリーズの外伝的位置づけとして書いてみてはどうかと提案し、実現することになる。

「椅子使い」はこうしてふたたび長い眠りに追いやられることとなった。だが、森は希望を捨てたわけではなかったようだ。

「たぶんまだまだ簡単には黒猫シリーズの呪縛から逃れることはできない気がするよ。でも、とりあえずは10年後を見据えてやっていかなければならないんだ」

「10年後には何が待っているんですか?」

「文章を武器に戦える作家だよ」

「今は違うんですか? というか、作家は誰もが文章を武器に戦っているのではないのですか?」

「今はいろんな要素を武器にしている。たとえば、いま僕がある樹木に芽が出て葉っぱになり枯れ葉になって落ちるまでの話を書いたって誰も買わないさ。でも、文章だけが武器の作家なら、そこに書かれているのが真夜中の冷蔵庫の音についての描写だけで埋め尽くされていたって飼う価値がある。10年後にそこまでいくのは難しいかもしれないけれど、難しいと言い捨てて放棄することはしたくないんだ。だから、いくら周りからあいつは見当違いなことをしていると思われても、この挑戦は続けていきたい」

「なるほど。それは、きっと先日の車のボディ云々の話とも近いことなんですよね?」

「そうだね。文章を武器に戦うというのは、文章がすなわち内容ってことであり、それがすべてだってこと。さらに、それが物語として美しければ言うことはない。精巧な椅子とかスプーンみたいな感じかな」

「スプーン、ですか」

「スプーンはかたちがすべてだ。手にもって、掬うという目的があって、あの形になっている。目的がそのままかたちであり、それだけで美しい。そこにはエンジンだとかモーターだとかとあれこれパーツを論じる余地なんかない。論じられるのはスプーンそのものについてだけなんだよ。椅子もそうだね」

わかるような、わからないような。でもとにかく、森が真剣に悩んでいることだけは何となく伝わった。

「そのためにはどうすればいいと考えてるんですか?」

「そのためには──やっぱり『椅子使い』かなぁ……」

彼はそう言って、椅子のカタログを手にしていた。この頃から、彼は少しずつ椅子の参考文献を集め始めていた。いつかふたたび、T嬢から黒猫シリーズ以外の作品を、と言われる好機をじりじりと待ち続けながら。

そして──その好機は翌年にやってきたのだった。

 

(明後日更新予定のプロット篇に続きます)