◆彼女はザ・ジョージア・ピーチと呼ばれた♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。


<<歌うことが大好き!>>



ジョージア州メーコンで

生まれた彼女は、

いわゆる早い時期から

地元の聖歌隊のコーラスや



シアタープログラムで

歌っていたそうです。





「教会へ通うのは

宗教的な理由からでしょうが、


そこでコーラスしたり、

シアタープログラムで

歌うとなりますと・・・。」







そうですね。

歌うことが好きだったのでしょうネ!




(そうですね。歌うことが好きだったのでしょうネ!)






それから彼女は10代で

もうテント・ショーの興行で


おもに南部をツアーして

まわったそうです。





「ホウ」

「それこそ好きこそ物の上手なれ

ではありませんが、

実益も兼ねて

実践を重ねていったワケですネ!」





そうですね。

それで20歳の頃には

シカゴに住み着きました。





「音楽のメッカ、シカゴですか。」





そうですね。

そこで彼女は


ジャズピアニストの

Tony Jackson や



(Tony Jackson )



☆I'm Cert'ny Gonna See 'bout That
 (Tony Jackson)♪





Jelly Roll Morton




(Jelly Roll Morton)



☆Jelly Roll Morton -
 Wolverine Blues ♪






たちと時々一緒に歌って



シカゴのキャバレーと

ナイトクラブなどで

働いたそうです。





「彼女なかなか

大活躍ではないでしょうか。」





そうですね。





<<ルシール・ヘガミン登場!>>


今回ご紹介するブルーズ・ウーマンは

ルシール・ヘガミンです。


(今回ご紹介するブルーズ・ウーマンは
ルシール・ヘガミンです。)





彼女は色白であったと言うコトから

しばしば"The Georgia Peach"と

宣伝されていたそうです。





「Peach(モモ、若々しい、水々しい、

とても気分がいい、充実している、


素敵な人、非常に魅力的<口語>、

おしり<俗語>)ですか・・・。」




「なかなか良いネーミングですね。」






そうですね。

おしり<俗語>の意味は

ともかくとして、


彼女の可愛らしさを

よく捉(とら)えていますし、


他のシンガーとの差別化にも

なっていますね。






「それに、

都会のシカゴであったなら

同郷の好(よしみ)で

彼女を支持してくれる

ファンの方もいたでしょうからネ!」






そうですね。



そう言えば

シルベスター・スタローンの

初主演作

”ロッキー”と言う映画の中で



主人公ロッキーのリング・ネームが

”イタリアの種馬(たねうま)”

と呼ばれていたコトからも




(主人公ロッキーのリングネームが
Italian Stallion(イタリアの種馬)と
呼ばれていたコトからも・・・。)





「あっ!なるほど!」


「でも、これは笑いを誘う

ケースかもしれませんが、


他との差別化と言う意味では

共通するでしょうネ!」





そうですね。


それから彼女は

24歳でカリフォルニア州

ロスサンゼルスに、


そして25歳の頃には

ニューヨークへ

引っ越していったそうです。





「ホウ」


「西海岸から東海岸へですか。」

「彼女、随分(ずいぶん)と

忙しそうですね。」





そうですね。

そのニューヨークで


彼女はキャバレーと

ナイトクラブ歌手として

キャリアと続けて・・・。




(彼女はキャバレーとナイトクラブ歌手として
キャリアと続けて・・・。)





「 O H ! 」

「飛躍の予感大(だい)です。」





更に、

ミュージカル・レビューの中で

パフォーマンスを

披露していったのでした。





「 O H ! ! 」

「彼女のキャリアが

また豊(ゆた)かになってゆきましたネ!」







後にインタビューで

彼女はこう言っていました。



”「私はその頃

キャバレー・アーティストで、

劇場でプレイする必要がなかったの。



そして、

ジャズのスタイルの中では



私はブルーズから

ポピュラーソングまで

すべてを詠唱したのよ。



私はシカゴで

" St. Louis Blues "を

一番拡めたと自慢するコトなく

語れるの。



これは私の

フュチャー・ナンバーのひとつだったわ。」”







「" St. Louis Blues "と言えば・・・。」





そうです。

Bessie Smith の代表曲です。



(Bessie Smith”St. Louis Blues ” )



☆Bessie Smith - St. Louis Blues (1925)
 Louis Armstrong ♪






「キャリアの幅は拡がっていても

彼女はキャバレー・アーティスト

としての位置づけを

大切にしていたのですね。」







そうですね。

その根っこであるキャリアの中で


彼女はブルーズから

ポピュラーソングまで


すべてを詠唱したコトを

誇っています。





「そして、

更にはSt. Louis Bluesが

大ヒット曲になれたのも

チャッカリ、

自分の手柄にしたりしていますからネ!」






そうですね。





「さすがザ・ジョージア・ピーチ!」

「愛らしさの上に宣伝上手!

抜け目なし!いや~っ!

なかなか侮(あなど)れません!」







☆Lucille Hegamin -
Has Anybody Seen My Corine? ♪


☆Lucille Hegamin.AVI ♪

☆Lucille Hegamin
Mississippi Blues (1921) ♪


☆Lucille Hegamin
"You´ve had your day" 1921  ♪






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☆ルシール・ヘガミン

Lucille Hegamin



本名:ルシール・ネルソン・ヘガミン

 
( 1894年11月29日- 1970年3月1日 )




アメリカン・シンガーで芸能人

そして

アフリカ系アメリカ人ブルーズ・

レコーディング・アーティスト。





ルシール・ネルソン・ヘガミンは

"Crazy Blues"による

Mamie Smithのパイオニア的な成功の

ちょうど2、3ヶ月後、



(Mamie Smith ”Crazy Blues”)



☆Mamie Smith - Crazy Blues♪





1920年に録音をリリースするための

アフリカ系アメリカ人の

ブルーズ・シンガーだった。





ヘガミンの最初の録音は

Arto Records用の

"The Jazz Me Blues"




(Lucille Hegamin "The Jazz Me Blues" )





 "Everybody's Blues"で、

そしてそれは十分に売れた。




だが、1921年の彼女の次の録音

"Arkansas Blues"




(Lucille Hegamin "Arkansas Blues")





 "I'll Be Good But I'll Be Lonesome"




1921年の録音で

最も人気のあったひとつで



彼女はブルーズ・シーンの開花した

スターのひとりになった。





< 略 歴 >



ルシール・ネルソンは

アメリカ合衆国

ジョージア州メーコンの



ジョンとミニー・ネルソンの

娘として生まれた。





早い時期から彼女は

地元の教会聖歌隊と

シアタープログラムで歌った。





15歳までに、彼女は

 Leonard Harper Minstrel Stock Company

(レナード・ハーパー吟遊詩人株式会社)




(Leonard Harper Minstrel Stock Company)




と共に米国南部を

(テント・ショー)ツアーしていたのだ。





彼女は1909年頃、

南部と北部に移動してから

シカゴまで

アフリカ系アメリカ人の

移動に参加した。





1914年に、彼女はイリノイ州

シカゴに住みついた。

しばしば"The Georgia Peach"と

宣伝されて、


ピアニスト-作曲家のBill Hegaminと

結婚する前に


ジャズピアニストのTony Jackson や

Jelly Roll Mortonと時々一緒に歌って



(Jelly Roll Morton)



シカゴのキャバレーとナイトクラブで

働いた。





彼女は1918年カリフォルニア州

ロスサンゼルスに、

翌年の1919年に

ニューヨークへ引っ越した。





ニューヨークで、

彼女はキャバレーと

ナイトクラブ歌手としての

キャリアを続けて、



ミュージカル・レビューの中で

パフォーマンスを披露した。






彼女は後に伝記作家に言った。


「私はその頃

キャバレー・アーティストで、

劇場でプレイする必要がなかったの。



そして、

ジャズのスタイルの中では



私はブルーズから

ポピュラーソングまで

すべてを詠唱したのよ。



私はシカゴで

" St. Louis Blues "を


(Bessie Smith " St. Louis Blues ")


☆Bessie Smith - St. Louis Blues (1925)
 Louis Armstrong ♪






一番拡めたと自慢するコトなく

語れるの。



これは私の

フュチャー・ナンバーのひとつだったわ。」


                    (ウィキペディアより抜粋)

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