天長節( 天皇誕生日)皇紀2676年12月23日 大須(名古屋市中区)の様子 | 論説 [ ● ]おおす新聞

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皇御國、第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)、藤田東湖「和文天祥正氣歌」天地正大氣 粹然鍾 神州。吉田松陰「士規七則」士道莫大於義 義因勇行 勇因義長。日本國領土 尖閣諸島徹底護持、七生報國

奉祝 天長節( 天皇誕生日)
皇紀2676年・平成28年12月23日
第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市中区大須)






日本国国歌「君が代」

君が代は
  千代に八千代に
 さざれ石の
   巌(いわお)となりて
    苔(こけ)のむすまで



五穀豊穣 天壌無窮

萬世一系乃皇統護持

天皇陛下萬歳





大須観音 本堂「大悲殿」 名古屋市中区大須2-21-47
皇紀2676年・平成28年12月23日 午前11時頃


別格本山 後村上天皇勅願所
北野山真福寺寶生院(きたのさんしんぷくじほうしょういん)(第96代 後醍醐天皇が寺号を賜る)」
大須観音(俗称) 本堂「大悲殿
(愛知県名古屋市中区大須2-21-47) 28/12/23 11時頃


論説  Article by yamap☆
第96代 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)(南朝 初代)

御名:尊治(たかはる) 
異称:吉野院(よしのん)
在位期間:1318~1339
生誕~崩御:1288~1339 52歳
陵墓:塔尾稜(とうのおのみささぎ)(奈良県吉野郡吉野町吉野山塔ノ尾・如意輪寺内)
父:後宇多天皇 母:談天門藤原(五辻 いつつじ)忠子(ちゅうし)
縁の神社・寺院:吉野神宮(奈良県)、如意輪寺(奈良県)、吉水神社(奈良県)、大須観音(愛知県名古屋市)



第97代 後村上天皇(ごむらかみてんのう)(南朝 二代)
御名:義良(のりなが)、憲良(のりなが)、吉野殿
在位期間:1339~1368
生誕~崩御:1328~1368 41歳
陵墓:桧尾陵(ひのおのみささぎ)(大阪府河内長野市寺元・観心寺内)
父:後醍醐天皇 母:新待賢門院(しんたいけんもんいん)藤原(阿野 あの)廉子(れんし)
縁の寺院:大須観音(愛知県名古屋市)



天長節の吉き日、奉祝の日の丸を配る大須界隈某女性 
皇紀2676年・平成28年12月23日
於:名古屋市中区大須三丁目 


天長節の吉き日、奉祝の日の丸を配る大須界隈某女性 
皇紀2676年・平成28年12月23日
於:名古屋市中区大須三丁目


天長節の吉き日、奉祝の日の丸を配る有志
皇紀2676年・平成28年12月23日
於:名古屋市中区大須三丁目


天長節の吉き日、奉祝の日の丸を配る大須界隈某女性 
「名古屋のちんどん べんてんや」http://www.gatein.ne.jp/~chindon/
皇紀2676年・平成28年12月23日
於:名古屋市中区大須三丁目


天長節の吉き日、奉祝の日の丸を配る有志 皇紀2676年・平成28年12月23日
於:名古屋市中区大須三丁目


大須商店街 万松寺通り 東端  皇紀2676年・平成28年12月23日
名古屋市中区大須三丁目


富士浅間神社  皇紀2676年・平成28年12月23日
名古屋市中区大須2-17-35


富士浅間神社 名古屋市中区大須2-17-35
末社 一番左 湊川社 御祭神 楠木正成公
皇紀2676年・平成28年12月23日 



富士浅間神社 末社 湊川社 御祭神 楠木正成公amba.to/14b3s1u
皇紀2676年・平成28年12月23日


楠木正成公 七生報國
楠木正成公(くすのき まさしげ公)は、 後醍醐天皇に殉じ、湊川(兵庫県神戸市)で、弟・正季公(まさすえ)と「七生報國」を誓って刺し違え殉節(皇紀1996年・西暦1336年5月25日、新暦7月12日)された尊皇の士。その志は明治維新の志士・吉田松陰先生(皇紀2519年・安政6年・西暦1859年10月27日、斬首刑。靖國神社の御祭神)に熱烈に受け継がれ、また、坂本龍馬(靖國神社の御祭神)、高杉晋作(靖國神社の御祭神)、西郷隆盛大久保利通木戸孝充伊藤博文など(敬称略)維新の志士が、楠木正成公の墓碑(現・湊川神社境内)に額づいて国事に奔走された。 
先の大東亜聖戦では、楠木正成公>の旗印である「非理法権天」が、沖縄特攻の戦艦大和に、人間魚雷「回天」を搭載した伊号潜水艦に掲げられた。
戦艦大和 沖縄特攻(菊水一号作戦) 
菊水作戦
戦艦大和に関して記載したブログ⇒http://amba.to/ZYVChS  http://amba.to/12glQlo

楠木正成公 七生報國
正季公「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」

正成公「いつかこの本懐を達せん」と誓った。

太平記・楠木正成、湊川での最期

7:40~当該動画の語句:楠木正季公(くすのき まさすえ。楠木正成公の弟)「次の世も、いや、七生(しちしょう)までも生まれ変わって、朝敵を滅ぼしとうござりまする」

楠公精神http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/tokko-sisou.htm(画像転載)
七生報國

七生報國の鉢巻きをされた回天特別攻撃隊の御英霊は米艦艇に対し特攻を敢行、散華されました。
鎮魂

楠木正成公https://youtu.be/g1EIArWgpwA

建武3年5月25日(新暦に直すと1336年7月4日)、楠木正成公は湊川の戦いで足利直義の軍と戦い敗れて、弟の正季公と「七生報國」を誓い、刺し違え自害。享年43
南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして自害した楠木正成公は朝敵とされてしまった。永禄2年(1559年)、楠木正成公の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、 正親町天皇の勅免を受けて正成は朝敵でなくなった(没後223年後)。(ウィキ等 転載編集)


(楠木正成公の死に際しての足利尊氏方の記録)
まことに賢才武略の勇士とも
かようの者を申すべき
敵も味方も
惜しまぬ人ぞなかりける
「梅松論」より


楠木正成公の御遺徳は、明治維新で顕在化し、日本が欧米列強諸国の植民地になることなく独立国家として、現在に至るまで存在していることの精神的支柱、行動の原点たらしめたといえる。先の大東亜聖戦で、楠木正成公の旗印である「非理法権天」が、沖縄特攻の戦艦大和に、人間魚雷「回天」を搭載した伊号潜水艦に掲げられた。


回天特別攻撃隊菊水隊



人間魚雷「回天」 回天記念館(山口県周南市岐山通1-1


回天碑 (回天記念館)
回天特別攻撃隊http://amba.to/1cgrz0Z
回天 大津島(おおづしま)http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-1662.html


戦艦大和 沖縄特攻(菊水一号作戦) 
菊水作戦
戦艦大和に関して記載したブログ⇒http://amba.to/ZYVChS  http://amba.to/12glQlo

非理法権天 回天楠公社前(岐阜県下呂市下呂町)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kaiten-gero.htm




三輪神社 皇紀2676年・平成28年12月23日
住所:名古屋市中区大須3-9-32(赤門通りと新天地通りの交差地点から北東に約40m、「矢場とん 矢場町本店」から南西に約100m)
大須赤門通http://amba.to/1v7Q33H

大神神社(おおみわじんじゃ)(奈良県桜井市三輪)
https://youtu.be/oq_Gmg6eQp0



熱田神宮 愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1 平成28年12月23日

御祭神 熱田大神(あつたのおおかみ)
熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)・御神体としてよらせられる、天照大神のことです。
天照大神は、言うまでもなく、皇室の御祖神とも至高至貴の神とも仰がれ、人々にいつくしみの徳をあたえられる神です。又、相殿神は「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々です。

御霊代 草薙神剣 
皇位継承のみしるしである三種の神器の一つです。日本武尊は、神剣の大いなるご加護により東国を平定。尊のなきあと、神剣は宮簀媛命により熱田の地にまつられ今にいたっております。神剣の名「草薙」は、尊が東国において、この神剣により草を薙いで難をのがれたことからこの名があります。

相殿神
天照大神 (あまてらすおおかみ)
素盞嗚尊 (すさのおのみこと)
日本武尊 (やまとたけるのみこと)
宮簀媛命 (みやすひめのみこと)
建稲種命 (たけいなだねのみこと)

(転載)


熱田神宮 孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)
御神祭:天火明命
尾張氏の祖とされる天火明命(あまのほあかりのみこと)をお祀りしております。式内名神大社に列せられております。もとは境内の別の位置に鎮座していましたが、明治7年現在地に遷座されました。

ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のますあせえほれけ

十種大祓




津鏡 辺津鏡 八握剣 生玉 死返玉 足玉 道返玉 蛇比礼
蜂比礼 品物之比礼

一二三四五六七八九十 布留部 由良由良止 布留部

石上神宮・特殊神事「鎮魂祭」

物部神社・鎮魂祭



熱田神宮本殿のほぼ真後ろにいた猫(神の使い(仮))
皇紀2676年・平成28年12月23日


愛知縣護國神社 皇紀2676年・平成28年12月23日
愛知県名古屋市中区三の丸1-7-3


愛知縣護國神社 宮城遥拝所 皇紀2676年・平成28年12月23日


『浦安の舞』 日本国国歌『君が代』 愛知県護國神社 秋のみたま祭 26/10/30


天地(あめつち)の

   神にぞ祈る朝なぎの

  海のごとくに

     波たたぬ世を

 ( 昭和天皇様 御製 昭和8年)






王命に依って催さるる事「藩訓秘伝之跡」 名古屋城 28/02/27

天下に轟く勤王の地・尾張

徳川家康公第9子・尾張藩祖・朝臣徳川義直公藩訓遺命
王命に依って催さるる事




青松葉事件
http://www.awin-urustim-music.com/Watanabe/aomatsuba/


10分でわかる尾張藩260年史
尾張は「朝廷の家来」http://www.mytown-nagoya.com/topic/topic02.html
義直は儒教をたっとび、勤皇の志にも厚い人だった。「朝命に依って」の一文はその著『軍書合鑑』の巻末にこっそり記されている言葉。万が一、幕府と朝廷が争うような事態となれば、尾張は迷わず朝廷側について戦えというのだ。(転載)

尾張藩の殿さま列伝
五、大儀を貫く (2)http://sigehiro.web.fc2.com/owari5_2.html
 尾張藩の藩祖義直はその著『軍書合鑑』に「王命に依って催さるる事」と記し、これが藩の秘訓として歴代の藩主に教え込まれてきた。万が一、幕府と朝廷が争う事態となったら、尾張は迷わず朝廷側について戦え、という内容である。
 歴代といっても、むろん十代から十三代まで幕府からの「押し付け藩主」は例外であろうが、慶勝の心の中に、しっかりと刻み込まれた家訓であり、信念であった。(転載)


尾張藩(おわりはん)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E8%97%A9
愛知県西部にあって尾張一国美濃三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。
徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。
尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。
藩主は尾張徳川家
表石高は61万9500石。(転載)



尾張徳川家第22代当主・徳川義崇(とくがわ・よしたか)氏
昭和36年(1961年)生まれ
徳川美術館館長  公益財団法人徳川黎明会会長



尾張徳川家・藩祖・朝臣徳川義直公(徳川家康公の9男)
尾張徳川家17代徳川慶勝公(14代慶勝の再勤)
徳川慶勝公11男・徳川義恕(よしくみ)氏( 大正天皇様侍従
徳川義恕氏長男・徳川義寛(よしひろ)氏( 昭和天皇様侍従長
徳川義恕氏次男・津軽義孝氏(徳川義寛氏実弟)( 正仁親王妃華子殿下の父)

正仁親王妃華子殿下:高祖父・尾張徳川家17代徳川慶勝公(14代慶勝の再勤)

第50回 評伝 徳川義寛さんと“玉音放送” (2000・12・25転記)      
◆ 昭和天皇とともに半世紀http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no50.htm
「乾徳(けんとく)をつねに仰ぎてひたぶるに仕えまつりぬこの五十(いそとせ)を」 
これは、1996年 2月 2日、89歳で亡くなった徳川義寛(よしひろ)さんが侍従長を退官した日の心境を詠んだ歌である。徳川さんは2・26事件の起きた1936(昭和11)年11月に侍従になり、1988( 昭和63) 年に勇退するまで52年間にわたって 昭和天皇の側近を勤めた。文字通り昭和史の<奥>の生き字引だった。(転載)




正仁親王殿下( 昭和天皇様第2皇子)  正仁親王妃華子殿下(まさひとしんのうひ はなこでんか)


正仁親王同妃両殿下 犬山城天守閣 昭和43年8月12日(同天守閣に掲げてある御写真)
犬山城:住所 愛知県犬山市犬山北古券65-2





正仁親王妃華子殿下(まさひとしんのうひ はなこでんか)
お名前:華子(はなこ)
お続柄:故津軽義孝(つがるよしたか)第4女子
お誕生日:昭和15年7月19日
お印:石南花(しゃくなげ)
総裁職など:皇室会議 議員
(公財)日本いけばな芸術協会 名誉総裁
(公社)日本動物福祉協会 名誉総裁
(公社)日本馬術連盟 名誉総裁
(一社)日本・ラテンアメリカ婦人協会 名誉総裁


ご学歴など:昭和36年 学習院女子短期大学英文科ご卒業
ご著書:
89番目のネコ (エレノアニルソン作、大社玲子絵、常陸宮妃華子訳)
せかいでいちばんおりこうないぬ (アニタ・ジェラーム 作・絵/常陸宮妃華子殿下 訳)
ぼくじゃないよ ジェイクだよ (アニタ・ジェラーム 作・絵/常陸宮妃華子殿下 訳)


ハニーが盲導犬になるまで (キャロライン・アーノルド 文/常陸宮妃華子殿下 訳/リチャード・ヒューウェット 写真)


しょうぼう犬ドット (デジミニ・リーザ 作・絵/常陸宮妃華子殿下 訳)




おおす新聞 2676(28)-12-24 08:01 配信







(付記)

岩手県の緑風荘の座敷わらし(亀麿)は、 後醍醐天皇 南朝の武将の子と言い伝えられている。
論説  Article by yamap☆
亀麿座敷わらし) 亀麿神社にて(岩手県二戸市金田一字長川41番地)

緑風荘(りょくふうそう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E9%A2%A8%E8%8D%98
岩手県二戸市金田一の温泉郷にある旅館。

沿革

1300年南北朝時代
南朝( 後醍醐天皇)の武将が北朝(足利尊氏)方との戦いに敗れ落ち武者となり大和国(現・奈良県)から武蔵国五日市(現・東京都あきる野市)に落ち延びこの地名を苗字とした

しかし、この地は関東の勢力範囲内でそこからさらに陸奥国(金田一)に落ち延びる。

この時6歳と4歳の男の子がおり、金田一までの旅路で兄の亀麿(かめまろ)は病にかかり死去する。

死の床で「末代まで家を守り続ける」と言い息を引き取った。

この亀麿奥座敷槐の間」に棲みつき「家の守り神」となり、時々客人に姿を見せたりいたずらをするようになったと言い伝えられている。

この部屋に泊まり座敷わらしに出会えると驚くほどの幸運に恵まれ男は出世し、女は玉の輿にのると一般的に言われている。


1910年
(明治43年)、日本ではじめてオカルトブームとなる。

民間伝承をまとめた柳田國男の『遠野物語』が発表された。

これをきっかけに座敷わらしの存在が全国に知られるようになる。五日市家座敷わらしも注目されたが、地元だけに限られた。

1955年(昭和30年)、五日市家により「緑風荘」開業。

1971年(昭和46年)、作家の三浦哲郎が緑風荘の座敷わらしをテーマに児童小説『ユタとふしぎな仲間たち』を発表。

1970年代のオカルトブームも重なり、緑風荘の名は一躍全国に知られるようになる。

1980年代
「怪奇現象」・「心霊現象」・「超常現象」をテーマとしたテレビ番組で度々取り上げられる。この頃から芸能人の宿泊ラッシュとなる。

2009年
(平成21年)10月4日午後8時半頃に発生した火災により、中庭の座敷わらしを祀った祠を残して全焼。



座敷わらしと再会? 「緑風荘」再建へ (河北新報 平成27年9月15日)

 「座敷わらし」が現れる伝説で知られ、2009年に全焼した岩手県二戸市金田一温泉の旅館「緑風荘」の運営会社は28日再建工事に着手する。営業再開は来春を予定している。

 再建する緑風荘は、延べ床面積約1000平方メートルの南部曲がり家で、宿泊部屋10室と浴場棟を備える。焼失前に東北工大(仙台市)が行った建築調査の図面を基に設計し直した。

 旧旅館と比べ規模は半分に縮小するが、座敷わらしが出ると伝わる「槐(えんじゅ)の間」など、かつての趣を再現する。

 総事業費は約3億円。運営会社座敷わらしの社債と全国からの募金や寄付金、投資ファンドを設立して募った約3000万円を充てる。

 同社の五日市洋社長は「再建資金の工面に苦労したが、やっと着工できることになりうれしい。再建を期待して応援してくれた全国の皆さんに感謝したい」と話している。

 緑風荘は09年10月、ボイラー室から出火し、築300年の母屋など4棟が焼けた。旅行雑誌などで紹介され、3年先まで予約が埋まる人気だった。


柳田國男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9C%8B%E7%94%B7

遠野物語(とおのものがたり)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E9%87%8E%E7%89%A9%E8%AA%9E






第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)


大須は尊皇の街 萬世一系乃皇統護持 旧宮家乃皇籍復帰

古事記1300年 大須観音展



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日本のメディアが報道しない支那(china)の事実

http://ameblo.jp/yamap888/entry-11584663765.html




外務省「尖閣諸島」Senkaku Islands
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/


外務省 尖閣諸島→資料コーナー→尖閣諸島について(平成27年3月16日更新)(PDF)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/pdfs/senkaku.pdf


尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり, 現に我が国はこれを有効に支配しています。したがって,尖閣諸島をめぐって解決し なければならない領有権の問題はそもそも存在しません
日本は領土を保全するために毅然としてかつ冷静に対応していきます。
日本は国際法の遵守を通じた地域の平和と安定の確立を求めています。





外務省「竹島」Takeshima
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/
竹島の領有権に関する日本の一貫した立場
竹島は,歴史的事実に照らしても,かつ国際法上明らかに日本固有の領土です。
韓国による竹島の占拠は,国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり,韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません
日本は竹島の領有権を巡る問題について,国際法にのっとり,冷静かつ平和的に紛争を解決する考えです。
(注)韓国側からは,日本が竹島を実効的に支配し,領有権を再確認した1905年より前に,韓国同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません





外務省「北方領土」the Northern Territories
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/
1855年2月7日日本ロシアとの間で「日魯通好条約」が調印され択捉島とウルップ島の間に国境が確認されました。それ以降も,択捉島国後島色丹島及び歯舞群島からなる北方四島は,一度も他国の領土となったことがない,日本固有の領土です。しかし,1945年に北方四島がソ連に占領されて以降,今日に至るまでソ連・ロシアによる不法占拠が続いています。
政府は,北方四島の帰属の問題を解決してロシアとの間で平和条約を締結するという基本方針に基づき,ロシアとの間で強い意思をもって交渉を行っています。




海における法の支配  外務省


The Rule of Law at Sea  MOFA Japan





吉田松陰先生士規七則(しきしちそく)」


http://blog-imgs-67.fc2.com/n/e/z/nezu621/20140924101946977.jpg


士規七則

披繙冊子 嘉言如林 躍躍迫人 顧人不讀 即讀不行 苟讀而行之 則雖千萬世 不可得盡 噫復何言 雖 然有所知矣 不能不言 人之至情也
古人言諸古 今我言諸 今亦詎傷焉 作士規七則

一 凡生為人 宜知人所以異於禽獣 蓋人有五倫 而君臣父子為最大
  故人之所以為 人忠孝為本
一 凡生皇國 宜知吾所以尊於宇内 蓋 皇朝萬葉一統
  邦國士大夫 世襲禄位 人君養民 以續祖業
  臣民忠君 以継父志 君臣一體 忠孝一致 唯吾國為然
一 士道莫大於義 義因勇行 勇因義長
一 士賢以質實 不欺為要 以 巧詐文過為耻 光明正大 皆由是出
一 人不通古今 不師聖賢 則鄙夫耳 讀書尚友 君子之事
一 成徳達材 師恩友益居多焉 故君子慎交遊
一 死而後已四字 言簡而義廣 堅忍果決 確乎不可抜者 舎是無術也

士規七則 約為三端 曰 立志以為 萬事之源 選交以輔 仁義之行 讀書以稽 聖賢之訓 士苟有得於此 亦可以為成人矣。





天長節 奉祝大会(國士舘大学 昭和40年頃4月29日)


終戦の詔書 (昭和20年8月15日)http://www.chukai.ne.jp/~masago/syuusen.html

(抜粋)

朕は茲(ここ)に国体を護持し得て、忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在あり。

 若(も)し夫(そ)れ情(じょう)の激する所、濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし、或は同胞排儕(はいせい)互に時局を乱(みだ)り、為(ため)に大道(たいどう)を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒しむ。

 宜しく挙国一家子孫相伝え、確(かた)く神州の不滅を信じ、任(にん)重くして道遠きを念(おも)い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつく)し、志操を鞏(かたく)し、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後(おく)れざらむことを期きすべし。

 爾なんじ臣民、其(そ)れ克(よ)く朕が意を体せよ。