水瓶座にとって2016年という年は

 

「次に何を見ていくか」

 

ということが焦点になったと思うのです。

 

そのことを喋っていく前にどうしても

 

水瓶座という人達が見ている世界

 

についてお話したいのです。

 

これ、どこで書いたかは忘れてしまったのですが、僕は以前に水瓶座という人たちが大体

 

10代ぐらいの時にあるカリスマ性を放つ

 

という人が多いと思うのです。これですね、本当に本人が全然自覚のないところでやってくるのですが、水瓶座って、10代の頃に本人がやさぐれていようが、普通に生きていようが、目立たずに生きていようが、「あの人には何かある」という特別な輝きを持って周囲から見られるようになるケースが多いのです。

 

もうひとつお話をしたいのですが、水瓶座って本当に「ものすごい英才」というか、特別な輝きを持つ人であるのと同時に、本人たちはものすごい「自分に課すルール」とか「禁止事項」って多い人でもあります。

 

たとえば「快楽というものがものすごく好きだからこそ、自分に快楽を与えることを全面的に禁止する」というような自制感覚を水瓶座ってものすごく強く持つのですね。

 

これは今度ゆっくりまた違う日にちで書きたいのですが、水瓶座ってどこかで「裏切る」という感覚をすごく恐れるところがあると思うのです。

 

たとえば人って両親の元から生まれて、それですごい中略するけど思春期って迎えるじゃないですか。思春期ってその人の「大人になる」上での人格形成上ものすごく重要な時期なんです。

 

思春期の時って、一般的な例で言うと「お母さんが作った愛情たっぷりのごはん」を食べたくなくなって、ジャンクフードが食べたくなる。親が禁止している映画や作品を観たくなって、「誰もわかってくれない」という孤独を抱えるからこそ、「人と人とがわかりあう」という理想に命を賭けたりする。

 

思春期ってそういう意味で「何かのルールを破る」ということと「(今まで育ててくれた親を)裏切る」という、重要な成人に達するまでの儀式なのです。親とか家族の言うことをきくよりかは友達や彼氏(or 彼女)」と一緒にいることを重視するみたいな。

 

でも、ここで一種水瓶座の問題が出てくるのですが、水瓶座って「自分を育ててくれた親的な人たち」とか「自分と一緒にいた兄弟的な人たち」を絶対に断ち切れないのです。

 

だから、思春期の時に「そういうものから離れた自分」と「家族の中で大事にされてきた子ども性としての自分」をかなり強く抱えることになります。水瓶座にとって「家族」というのはものすごい恩義や愛情を抱く存在であるのと同時に「家族というものを切り捨てて個人として独立するわけにはいかない」という葛藤を抱える存在にもなるのです。「水瓶座と家族の問題」ってまた今度しゃべりますね。また濃い話なんですよこれが。

 

だから余談なんだけど、水瓶座って舞台とか映画とかで、死にそうになったキャラクターが「本当は〇〇のことをずっと愛していた」というようなシーンってもう本当に鳥肌が立つぐらいに好きです。死が目前に迫ってきたからこそ、隠しておいた自分の本音が言える。「死」というものが目前に迫ってきた時にはじめて「色々自分が大事にしてきた鎖を断ち切り、自分の本音を言える機会がくる」っていうすごく限定された状況の中ではじめて「自分の本音」というものに自らが触れることができるのです。だから水瓶座がアートとか表現活動に関わると、恐ろしいぐらいの表現力を発揮します。音楽とか台詞に自分の本音を乗せることができるからなのです。水瓶座の本音っていつも「ふたつの方向に引っ張られる」美しさと哀しさを抱えています。

 

一般の人がいう「本音を言いなよ」って色々な選択肢を捨てて「ひとつ」を選んだ方が本音じゃないですか。

 

「色々あったけど、私はこちらを選ぶ」

 

って。

 

でも、水瓶座って「片方」なんて選べないんです。いつも「両方の道」とか「ふたつの可能性がある道」を選ばざるを得ない。「何かを捨ててひとつに絞る」ってなかなか難しい試練の道なのです。「大事なものをひとつにしぼる」「自分の(ひとつの)本音」を言うってできない。だからいつも水瓶座って僕は「美しさ」と「悲しさ」の両方を抱えているように見えてしまう時があるのです。

 

そして「ふたつ」を抱えていることをすごく本人が知っている。だから、半分は本音で、半分はどこかで「自分自身にも嘘をついている」というような妙な感覚がある。

 

「本当の自分じゃないからこそ、何かを自制しながらそれを演じている自分自身に誇りを持つことがある」

 

というような、ちょっと他の星座の人には理解しがたい性質があったりするのです。そういうのってすごく、本当の意味で「人間らしい」というのが水瓶座の本懐なような気がするのです。人間ってそう簡単に「ひとつの大切なもの」なんて選べないじゃないですか。すごく美しいという表面の裏側に「すごく醜い」という一面があったりする。そういう二面性を信じるのが水瓶座。

 

で、2016年なのですが

 

「次に何を見ていくか」

 

という方向性に向き合っている。その時の結論としてはやっぱり「ふたつ」ということになったんじゃないかなぁと思うのです。

 

だから水瓶座にとってたとえば「仕事とプライベートどっちが大事なのか? 」というようなシンプルにまとめようとする質問は自分自身にもしない方が良いです。他人から「あなたはどっちが大事なの?」というような二者択一を迫られるような質問には「うーん、わからない」と正直に言うのが良いと思います。

 

どちらの可能性も倒れるまでやってみるということをやりたい。

 

その上でもし「何かを選ばなければいけない」というタイミングがきているように感じたら、なんらかの条件を3つぐらいあげて

 

「この3つのポイントが改善されなければ〇〇月までに見切りをつける」

 

というようなリミットは設けておいて良いと思います。「自分はそれに対してこのような努力をしてきた。でも、それに対してまったく改善が見られない」というのが三つぐらい重なったら、見切りをつけるポイントであると頭のどこかでおぼえておいて欲しいのです。

 

水瓶座は一度大事に思った人とか、モノとか、関わるものに対してそう簡単に「見切り」をつけることなんてできないです。

 

みんなの前でやさしさとか慈しみというところで動くものすごい「大人性」と、「私はあなたを切ることはできない。なぜなら、あなたはもう私にとって家族だから」という、ものすごい家族性を持っているからこそ、「じゃあ自分が犠牲になることによってバランスとればいいや」という考え方にいきがちなところもあります。

 

すごいでしょ水瓶座(笑) すごい人たちなんですよ。

 

一枚の美しい絵の裏側に、ものすごい色々な絵の具が混じったようなグロテスクなパワーもある。

 

だからやっぱり水瓶座も一回では説明しきれないので、今度また「水瓶座と家族という話」について書きたいと思います。

 

2017年はどこかで「見切る」という年になると思いますので、上の「見切りのルール」は頭においといてくださいませ。それでは水瓶座の皆さまおやすみなさい。