こんにちは、karinatatsuoです。

 第12講では、皆さんよくご存知の「元寇」や「鎌倉幕府滅亡」前後までお話しします。日本史を学習する際「雑学」を知ることにより興味が湧くこともいいことだと思います。でも、入試でも役立つよう、「なぜ」と「流れ」をきちんと理解して頑張っていきましょう!! では、はじめます。

 

 前回は、鎌倉時代を大きな4つの時期に分けて、そのうち第1期と第2期、13世紀中期までお話しました。今回は、第3期(13世紀後期)と第4期(14世紀前半)を扱います。

 

 分けた4つの時期を復習しましょう。

       1  鎌倉幕府の成立と源氏の滅亡

       2  執権政治王冠1

       3  元寇と得宗専制政治

       4  鎌倉幕府の滅亡

 13世紀後期は元寇と鎌倉幕府衰退の時期、14世紀前期は鎌倉幕府滅亡と建武の新政、室町幕府成立の時期となります。それでは、3からはじめていきましょう。


3  元寇と得宗専制政治

 

 第3期は大きく2つの時期に分けられます。

 

     ●8代執権 北条時宗(ホウジョウトキムネ)

     ●9代執権 北条貞時(サダトキ)

 

 さて、北条時宗は、5代執権だった時頼の子で、文化史的には南宋から無学祖元(むがくそげん)を招待し、鎌倉に円覚寺(えんかくじ)を建立した人ですが、彼の時期は元寇(げんこう)がメインとなります。元寇ですから、まずは元について見ていきましょう。

 

 13世紀初め、チンギス=ハーン[成吉思汗]はモンゴル民族を統一し、中央アジアから南ロシアまでを征服するモンゴル帝国を建国します。その後継者オゴタイ=ハーンはさらにヨーロッパまで遠征、東では(女真人の国)を滅ぼし、ユーラシア大陸東西にまたがる大帝国にします。

 

 その後、チンギス=ハーンの孫フビライ[忽必烈]=ハーンは中国支配に乗り出します。まず、30年余りモンゴル軍に抵抗していた高麗を服属させ、また吐蕃(とばん)というチベット民族も服属させて、周りを固めていきます。そしてついに、1271年都を現在の北京がある大都に移し、と国の名前を定めるわけですチョキ

 

 後にまた出てきますが、このころから1273年まで高麗では一部まだ抵抗するものが残っていました。三別抄(さんべつしょう)というグループが抵抗していたんです。

 

 フビライはマルコ・ポーロの話で「黄金の国ジパング」に興味を持ちます。ところで、高麗って朝鮮半島にあった国ですよねはてなマーク元は当然その先にある日本にだって、「服属しなさいビックリマーク」って要求してくるわけです。

 

 しかしながら、当時の執権だった8代目北条時宗は、この服属要求を断りますプンプン。「あんなに強い元なんだから、服属しとけばよかったのに。時宗ってバカだね」と思うかもしれませんが、時宗だってバカではありません。当時の国際情勢はある程度知っているんです。

 

 「あの元の服属要求断っちゃったよ。高麗だって服属してるんでしょ。怒ってむかっ襲ってきたらどうしよう」と考えた時宗は、元が襲ってくると予想される博多湾岸船などの九州北部で御家人に警備させるため、異国警固番役(いこくけいごばんやく)を御家人に課します。「警護」じゃなくて「警固」ですよ。守りを固めましょってわけですね。

 

 そして、やはりフビライ=ハーンは怒り、日本に攻め込んできますむかっ。これが1274年文永(ぶんえい)の役です。元は、高麗の軍も参加した約3万の兵でまず、対馬・壱岐(いき)を攻め、その後博多湾まで上陸します。元の軍隊は、当時の日本になかった火薬(てつはう)爆弾を利用して日本を苦しめます。当時の日本ってね、武士の時代ですよね。ですから騎馬戦馬状態なんです。つまり、「やーやー、我こそは幕府軍の・・・」って言ってるわけです。そんなことをしている間に、元の集団戦法で殺されちゃうんですドンッ

 

 とはいいつつも、日本軍もかなりダメージを与えます。また「神風」とまで言われた暴風雨のおかげで、大変な目にあった元軍は撤退します。

 

 幕府は、元がもう一回攻めてくることを警戒して、異国警固番役を強化するとともに、上陸された博多湾に石塁(せきるい)目[防塁(ぼうるい)]という、防御用の石垣を作ります。

 

 しかしながら、日本がこのように準備していたのにもかかわらず、元はすぐには日本に攻めてきませんでした。どうしてかというと、元にはもう一つ目標があったからです。それは、中国大陸の南を支配していた南宋(なんそう)を滅ぼして、中国全土を元のものにすることでした。元は、文永の役の5年後1279年に、南宋を滅ぼしますドンッ

 

 さて、元の次なるターゲットは「日本」です。元は、高麗・南宋を含めた約14万人の軍勢で、再び日本に襲いかかりますドンッ。これが1281年の弘安(コウアン)の役です。文永の役の3万人の約4倍ですから、かなり大規模だったんですね。元軍は、文永の役では一方通行で攻めましたが、今回は違います。なにせ南宋を滅ぼして、中国全土を支配したのですから、日本攻撃ルートが増えたわけです。ですから、元軍は今までどおりの朝鮮半島から行く東路軍(とうろぐん)と、中国大陸の長江の南から行く江南軍(こうなんぐん)の二手に分かれて攻めてきます。

 

 しかし、今回は博多湾に作られた石塁とPower Upした異国警固番役の力によって、元の船は博多湾から上陸ができませんショック!。そうこうしている内に前回と同様、「神風」が吹きます。今回元軍は上陸できずに、全員海上にいたわけですから、元軍は前回以上に大打撃を受けて、再び撤退することになりましたショック!

 


ダイヤ9代執権 北条貞時(さだとき)

 

 元の2度の襲来を防いだ時宗も疲れたのでしょう、元寇後すぐに亡くなってしまいます。その跡を継いだのが時宗の子の9代執権北条貞時です。この時元は3度目の来襲を計画しますが、高麗での三別抄の乱や旧南宋勢力や大越(ベトナム)の抵抗も強く、断念しますショック!。鎌倉幕府はそんなこと知りません。だから、幕府も九州の警備をゆるめることができず、引き続き異国警固番役を課し、今度は御家人以外の武士たち、全国の荘園・公領の武士を動員する権利を朝廷から得ました。

 

 こうして、鎌倉幕府の九州をはじめとする西日本での権力が強くなっていきます。このころ、北条一門が就任し、博多に九州の政務や裁判の判決、御家人の指導などを行う機関として、鎮西探題ビル(ちんぜいたんだい)が設置されたのも、鎌倉幕府の西日本での権力強化を象徴している出来事です。

 

 鎌倉幕府の権力がPower Upすると、当然北条氏の権力もPower Upします。北条氏の中でも得宗(とくそう)と呼ばれる北条氏本家の家筋の権力が強くなり、得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)という、得宗家の独裁政治の時代へと移っていきます。

 

 得宗の名前は、2代執権北条義時が徳宗と言ったことから由来します。得宗専制政治では、かお内管領(うちかんれい)をはじめとしたかお御内人(みうちびと)が幕府の政治を主導して、得宗の家で開かれる寄合が政務を決定する最高会議キスマークとなります。

 

 御内人の「」は得宗に対する尊敬語、「」は内部ということですから、得宗家内部の家来のことですね。そのトップが内管領というわけです。

 またこのときには、全国の守護半分以上は北条一門が占めていて、絶大な権力を握っていたことがわかります。

 

 得宗の力が強くなれば、その家来たちの力も強くなっていきます。当時内管領だったかお平頼綱(よりつな)は、有力御家人だった安達泰盛(あだち・やすもり)と対立し、1285年霜月騒動(しもつきそうどう)で滅ぼしてしまいます。得宗の家来なんかが有力御家人を滅ぼしちゃうわけですから、得宗には絶大な権力があったことと考えられるわけです。しかしながら、この平頼綱の勢力拡大を恐れた貞時は、平頼綱を滅ぼしてしまいます。「目立つと危ない」ってことでしょうね!?

 

 さて、このように得宗家の力が強くなっていったのは、九州での支配が強化されたからだけじゃないんです。幕府の家臣の御家人の力、これが弱くなってしまったからとも言えるんです。それでは、なぜ御家人の力が弱くなっていったのかを見ていきましょう。

 

 御家人の力が弱くなったことの大きな理由は元寇です。当時の御家人たちは、お仕事して成果を出したら幕府から¥恩賞、つまりご褒美をもらえるシステムで動いていました。当然、ご褒美なんて後払いです。当時戦乱がほとんどなくなっていて、マンネリ化していた御家人たちにとって、元寇は¥褒美をGETチョキするまたとないチャンス。だから、御家人たちは一所懸命戦います。しかし、元寇では褒美はほとんどなかったんです。

 

 どうしてかというと、幕府のあげる¥褒美は、基本的にお土地です。いつもの戦いでは、敵をやっつけて、敵から奪った土地を御家人に褒美としてあげていたわけです。しかし今回はどうですかはてなマーク攻めてきたやつらを追っ払っただけだよね。つまり、敵から土地奪っていないでしょ。敵から土地を奪っていないわけなので、幕府も褒美をやることができないんです。この結果、せっかく頑張った御家人たちは戦い損をして、貧しくなっていくわけです。

 

 さらにこの時代、分割相続が基本的だったために、それを繰り返して持っている土地がどんどん小さくなるし、貨幣が発達して、物々交換の時代からお金で購入する時代へ移行していくために、ますます窮乏していきます。この結果、「幕府の言うこと聞いててもさ、褒美もらえんし、土地は小さくなるしショック!」ということで、幕府への信頼は低下し、「幕府のいうこと聞いたってろくな事ないビックリマーク」という雰囲気になっていき、それが御家人が幕府を離れ、幕府滅亡へとつながっていくんです。

 

 それを防ごうと、貞時は法令を出します。1297年の永仁(えいにん)の徳政令本です。これは御家人が売ってしまった土地をタダで取り戻せるというものなんですが、詳しく見ていきましょう。

   ① 御家人の土地を質入れ・売買はNGです

   ② 御家人が関係した金銭の訴訟は受け付けません

   ③ 越訴(おっそ)つまり、「もう一回審査してよ」の再審請求はNGです

   ④ 他の御家人に売っちゃった土地は、売ってから20年以内ならタダで返却

   ⑤ 非御家人・凡下に売っちゃった土地は、年関係なしでタダで返却

 

 この法令は、見ると非常に都合のよいことが書いてあると思うかもしれませんが、違うんです。この法令は、「御家人さん、今まであんたが売っちゃったお土地は返してあげる。その代わり、もう土地を売ったり買ったりしてダメだでね。」とう本法令なんです。つまり何が言いたいかというと、今後は土地を売ったり、土地を担保にして借金することができなくなるんです。今まで生活が厳しくて借金していた人にとって見れば、借金するなっていうことですから当然不満が起こります。

 

 結局この法令の効果は一時的で、後に御家人に都合の悪い①~③は撤廃されますが、御家人の窮乏化を救うことはできませんでしたショック!

 


4  鎌倉幕府の滅亡

 

 では、いよいよ4の鎌倉幕府の滅亡に進みますよ。鎌倉幕府が衰退した理由は大きく分けて、得宗専制政治御家人の窮乏化の2つです。得宗専制政治とは、得宗の専制政治つまり独裁政治のことです。独裁政治は必ず人々に不満を起こさせるものですから、その不満が「鎌倉幕府もういらない」という方向に人々を持っていくわけです。それから御家人の窮乏化ですけれども、御家人とは幕府の家来だね。家来が窮乏化すれば、当然幕府の力だって弱くなるに決まってるんです。

 

 さて、その頃の天皇家はというと、2つの派閥に分かれて対立していました。亀山天皇をはじめとする大覚寺統(だいかくじとう)と、後深草上皇(ごふかくさじょうこう)をはじめとする持明院統(じみょういんとう)です。二人の親の後嵯峨法皇の死後、息子2人が天皇家の権力をめぐり、対立し始めたんですメラメラ

 

 この対立の間に入り、幕府は仲介します。その時、幕府が考えたのが両統迭立(りょうとうてつりつ)という方法です。これは、大覚寺統・持明院統が交互に天皇に即位していく方法です。1317年こうすることで、「2つとも必ず天皇になれるんだから、喧嘩はしちゃだめ」と幕府は諭すわけです。これをニコニコ文保の和談(ぶんぽうのわだん)といいます。

 

 その両統迭立の結果、決めた時の持明院統の花園天皇が即位して、自分の親後宇多法皇が院政をしていた中、1318年大覚寺統の後醍醐天皇が即位しますニコニコ。後宇多法皇はもう天皇じゃないですよ。天皇が持明院統だったから、こうなるわけです。

 

 この後醍醐という名は、醍醐天皇にあやかってつけたものです。ひらめき電球つまり、後醍醐天皇は醍醐天皇をとても尊敬し憧れていたわけです。そこで、後醍醐天皇は醍醐天皇と同じ、天皇親政をやろうとしますニコニコ。後醍醐天皇は天皇親政を行うため、1321年記録所を再興するとともに、上皇が政治に口出ししないようあせる院政を廃止します。

 

 「記録所を再興」とも書いているように、以前からあったんです!!思い出してください。後三条天皇のときの記録荘園券契所です。ひらめき電球ただこの時は荘園整理というよりも、重要政務を行う機関となります。

 

 しかし、鎌倉には幕府という存在があります。この幕府という存在、元寇をきっかけに支配権を拡大していますから、これが続く限り天皇親政なんてうまくいくはずがありません。ひらめき電球でも、当時の幕府は得宗専制政治のもと、14代執権北条高時(たかとき)とかお内管領長崎高資(たかすけ)の「高高コンビ」が政治を欲しいままにしていて、多くの人が幕府への不満プンプンを持っていました。

 

 ひらめき電球そこで、後醍醐天皇は「鎌倉幕府を倒すんだ!!」と決断し、2つの倒幕計画を立てます。1324()年に正中(しょうちゅう)の変では幕府側にもれてしまい、後醍醐天皇の信頼を得ていた日野資朝(ひの・すけとも)という人は佐渡に流されます。

 

その後の1331年の元弘(げんこう)の変でも幕府側にもれ、先程の日野資朝・俊基(としもと)は死罪となります。後醍醐天皇は危ないビックリマークと察知し京都を脱出しますが、笠置山(かさぎやま)で捕まり、隠岐(おき)へ配流されてしまうんです叫び

 

 後醍醐天皇が流される少し前に、鎌倉幕府は持明院統の光厳(こうごん)天皇を即位王冠1させます。しかし後に人々はこれを「幕府が天皇を島流しにして、別の天皇を立ててるがや」と思って、幕府の横暴だと考えます。その結果そんな幕府は倒さなかん!!という動きが出てくるわけです。後醍醐天皇の子護良親王(もりよし・しんのう)は、「俺の親父をひどい目をあわせやがって、こんにゃろー!!」と吉野で挙兵し、倒幕の令旨を出して、人々は倒幕のために立ち上がっていきます。河内の悪党であり、後醍醐天皇の信任を得た楠木正成(くすのき・まさしげ)も千早城で挙兵します。

 

 そんな混乱している最中に、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年(なわ・ながとし)により伯耆(ほうきのくに)船上山に迎えられます。そして、先ほどの令旨本で、幕府の有力御家人で畿内に派遣された足利高氏(後の足利尊氏)が幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題に攻め込みます。また、新田義貞(ニッタヨシサダ)も鎌倉に攻め込み、北条高時を自害させますドンッ

 

 そして1333年、幕府の実権を握っていた14代目北条高時は自害し、鎌倉幕府は150年の歴史に幕を閉じるわけです。

 

 鎌倉幕府が滅亡したために、後醍醐天皇は京都に帰ってきます。ニコニコ後醍醐天皇は、幕府に天皇の位を奪われていたわけですから、鎌倉幕府滅亡とともに再び即位します。鎌倉幕府がなくなったので、後醍醐天皇は正真正銘の天皇親政をおこなうことができるようになりました。これが1334年の建武の新政(けんむのしんせい)のはじまりです。後醍醐天皇は新しい政治をおこなうため、中央に重要政務を担当する記録所や、鎌倉幕府の引付を受け継いだ雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)などを設置します

(細かくは後ほど「☆テーマでわかる日本史☆」で。)

 

 しかし、人々は建武の新政に不満を持ちますプンプン。まず、建武の新政では個別安堵法(こべつあんどほう)といって、全部の土地の所有権確認は、ひらめき電球天皇が簡単に出せる綸旨(りんじ)を必要とする法律です。何が言いたいかというと、綸旨が絶対なんだということなんです。ひらめき電球つまり、天皇の気分次第で政治がコロコロ変わるわけですね。だから、人々は混乱してショック!建武の新政に不満を持つプンプンことになるんです。

 

 また、鎌倉幕府を滅亡させた中心は武士たちなのですが、後醍醐天皇は、天皇親政を徹底したかったのでしょう、権力を持たないようにと武士たちへの恩賞をとても少なくするんです。さらに、先程の個別安堵法は武士社会の慣習を無視して、20年年紀法という「土地を20年支配していれば、その土地の所有を認めるよ」というものも無視された内容だったんですプンプン

 だから、武士としては「俺たちが戦ったから、鎌倉幕府は滅びたんだろ。納得いかんがねビックリマーク」と考えるわけです。当然不満だって持ちますプンプン

 

 とりわけ、鎌倉幕府滅亡の最大の功労で、後醍醐天皇の子ども時代の名の「尊」の部分をもらった足利尊氏(もとの足利高氏)が、建武の新政で重要な職についていなかったことも手伝って、足利氏のみならず他の武士たちの、建武の新政に対する不満をあおる結果となったのですプンプン

 建武の新政に対する不満は、メモ二条河原落書(にじょうがわららくしょ)<『建武年間記』に収録>という落書きにも記されています。ぜひ読んでみて下さい。今で言うラップみたいな感じですよ。

 

 実はこの時、足利尊氏は新しい幕府の樹立を考えていました。そんな中で1335年中先代の乱が起こります。中先代とは、北条高時の子北条時行(ときゆき)のことですが、彼が鎌倉幕府を再興しようと信濃で挙兵し、鎌倉を占領するわけです。

 この際、尊氏の弟直義(ただよし)は、建武政権の征夷大将軍護良親王を殺してしまいますドンッ

 尊氏はこの反乱を平定するために鎌倉へ赴きます。そしてこれを平定した足利尊氏は、建武政権に反旗をすんですプンプン

 その後尊氏は1336年、湊川の戦で後醍醐天皇側の有力武将だった楠木正成を倒し、京都を制圧するのですドンッ

 

 そして尊氏は同じ1336年に、自分で持明院統光明天皇(こうみょうてんのう)を即位させ、1338年に光明天皇に征夷大将軍に任じられます。これが、室町幕府の成立と初代将軍足利尊氏の誕生です。

 

 一方で、後醍醐天皇は「天皇なんてやめるもんか!!」と天皇を退位せず、吉野に逃げてしまいます。その結果、京都と吉野に各々持明院統と、大覚寺統の天皇が並び立つ状況になります。つまり、天皇が2人いるなんて不思議な状況になるわけですえっ。地理的に見ると京都が北で、吉野が南にあることから、持明院統がある京都王冠1北朝大覚寺統がある吉野王冠1南朝と呼ばれるようになります。これが以後約60年にわたる、南北朝時代のはじまりなのです。

 

 今回も長くなりました。復習をしっかりしてくださいね。お読みいただきありがとうございました。

それでは!!