最近「応仁の乱」がブームになっているそうです。それに火をつけたのが、中公新書の「応仁の乱」なんだそうです。


実は私もその新書を購入して、『「応仁の乱」と「三十年戦争」』というタイトルでブログに書いていました。以下に再掲します。



『応仁の乱」と『三十年戦争」


『「応仁の乱」は日本列島の古代から中世まて続いてきた律令制度と、中世になり律令制度の破綻の中から生まれた荘園公領制を破壊し、やがてそれらに代わる国高制と太閤検知か統一政権により実施される基礎を築きました。



ドイツ「三十年戦争」は、それまで形骸化していた「神聖ローマ帝国」を文字通り形式だけのものとし、1648年の世界初の条約であるウェストファリア条約にば「古い帝国の死亡診断書」と呼ばれ、多くの諸侯の支配の元にあったドイツを19世紀のドイツ帝国成立のための源流となり、今日のドイツ連邦共和国にもその影響は及んでいます。


また「応仁の乱」は、15世紀以降に浄土真宗が日本中に教線を広げ、加賀国を支配し、今日のような大宗教に発展する基礎を築きました。初めて鎌倉仏教は民衆の中に入っていった訳です。



ドイツの「三十年戦争」は、元来は新教徒のボヘミア諸侯と、旧教徒の神聖ローマ帝国軍とバイエルン侯との連合軍が、1620年のブラハ郊外の「ビーラ・ホラ(ワイセンベルク)の戦い」で皇帝軍が勝利したことから、当初は宗教戦争の側面を強く持っていました。そうした側面はデンマークの参戦、スウェーデンの参戦で、ドイツは戦場を提供するようになるまで継続しました。この宗教戦争の性格は旧教徒側であるべきフランスが、新教徒を助けて参戦するまで続きました。



また「応仁の乱」は日本では規模は小さいけれど、唯一の革命といえる「山城国一揆」を生み出すことが出来、また「三十年戦争」では徴兵制の一段前の「傭兵制」を生み出し、初期に旧教徒側に立って活躍したワレンシュタインは、傭兵隊長でした。また「応仁の乱」では、足軽たちが京都の屋敷を破壊して火をかけたり狼藉をしました。



さらに「三十年戦争」では、都市を一つ殺戮してしまうような戦いがありました。ザクセン州都のマグデブルグでは、バイエルン兵士による大虐殺が行われ、三十年戦争最大の悲劇とされています。この時期には大砲が盛んに戦闘時には使われましたが、それは都市の城壁を破壊するために使用されたのに対し、日本では相手への威嚇用に使われました。



また銃も盛んに使用されました。日本の銃は鳥うち銃から発達した小型のものでしたが、ヨーロッパの銃は少し大きめのムスケット銃が使われ、Y字型の持ち運び可能な支柱を使って撃ちました。



このように「三十年戦争」と「応仁の乱」とを比較すると、この2つの2世紀ほど時期の違う戦争が、両国を発展させたダイナミズムを読み取ることが可能だと考えられます。いずれもマルクス主義歴史学から見れば、生産力と生産関係の落差という矛盾点が沸点に達したため、戦争という沸騰した状態となったわけです。爆弾は両者の矛盾を解決するのには、一番手っ取り早い方法でした。



近代以前の東西の2つの戦争は、比較すると興味深い共通点が他にもあると思われます。』以上。



東洋学者の内藤湖南は「応仁の乱以前の日本の歴史は、いわば外国の歴史のようなものである」と述べていますが、これは「応仁の乱」が日本史の大転換点てあったことを示しています。「応仁の乱」が、今日の日本が生まれる原点になったと考られます。