対人恐怖で悩む内向型治療師のブログ

対人恐怖で悩む内向型治療師のブログ

私は対人恐怖で、緊張すると手が震える小心者の治療師ですが、
それでも30年余、延べ10万人も施術してくることが出来ました。

その経験から、対人恐怖でお悩みの治療師のみなさんに、
メンタルや施術方法についてお話したいと思います。


ところで、この「拈華微笑」の話は『大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)』の中に記されているのですが、実はこの経典はいまだに原典の発見がなく、その上いずれの蔵経にも編入されていませんので、後世に作られた偽経であろうといわれています。


だから、こういう史実があったかどうかは疑問です。


しかし大法を迦葉に付嘱されたということは事実ですから、まったくの架空の話だとも思われません。


むしろこういう話で表現されるようにして、大法が付嘱されたであろうと想像されうるのであります。


まあそういう史的考証は専門家に一任するとして、いまここで工夫してみなければならないことは、釈尊が花を拈じられたご意旨はどこにえるのか、迦葉はなにを感じて微笑されたのかということです。




(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 






















さまざまな宗教で伝えられる逸話伝説の中に史実がどれくらいあるかと考えると、あまり多くはないのかも知れません。

史実かどうかよりも、その話を通して何を伝えようとしているのかを考える方が大切なような気がします。












ところがその中でただひとり、一番弟子の迦葉(かしょう)尊者だけがニッコリと微笑されたのです。


この迦葉の破顔微笑をすばやく一べつせられた釈尊はそこではじめて口を開かれ、

「吾れに正法眼蔵涅槃妙心実相微笑(しょうぼうげんぞうねはんみょうしんじっそうむそうみみょう)の法門あり。不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)なり、摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(すぞく)す」

と申されました。


このようにして釈尊の大法は迦葉に伝えられ、印度相承の第一祖となられたのであります。


これが「拈華微笑」といって禅門ではやかましい公案の一つとなっており、また、不立文字、教外別伝を標ぼうし、嫡々相承(てきてきそうじょう)を生命とする禅宗の伝灯の始まりがここにあるとして、重要視せられているのであります。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 






















一枝の花を見てニッコリするというのは、いかにも悟りの世界の話だなぁと思いました。

どんな感じなのかは今の私にはまったく分かりませんが、いつか少しでも分かりたいです。













拈花微笑(ねんげみしょう) (無門関第六則)


これは釈尊晩年のある日の霊山会上(りょうぜんえじょう)でのできごとであります。

(霊山とは霊鷲山(りょうじゅせん)の略称で耆闍崛山(ぎじゃくっせん)のこと。古代中印度摩掲陀(まかだ)国の首都王舎城の東北にあり)


釈尊は、この日はいつもと違って、大梵天王が献上した金波羅華(こんぱらけ)という天上の妙花一枝を持って説法の座に登られ、無言のまま座下八万の大衆をズーッと見まわされるや、その花を大衆の前にグッと差し出されたのであります。


例によってありがたい説法が始まるものと、かたずをのんで待っていたのに、黙って花を差し出されただけですから、一同は狐につままれたようにポカンとしておりました。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 






















お釈迦様の話とはぜんぜんレベルの違う話ですが、セミナーなどで自分の期待していることとは違う講義をされると、困惑したりがっかりしてしまうことがよくあります。

怒りが湧き出ることすらあります。

しかし、時がたつと、あの時のあの話はこういう意味だったのか、あの話はこんな価値があったのかと気づくこともあります。

今回のこととは違う意味ですが、思い出したことを書いてみました。












ところでこの語は『大品般若(だいぼんはんにゃ)』に出ている、次のような故事によるものであります。


釈尊の十大弟子の一人須菩提(しゅぼだい)は、釈尊の説きたまう般若の空理を最もよく領解(りょうげ)していましたので、解空(げくう)第一と称せられていました。


この須菩提が、あるとき巌窟の中で端坐瞑目し、自己も天地も尽くし切った一切空の禅定三昧にはいっていますと、諸天が花の雨を降らせて賛嘆しました。


そこで須菩提が驚き怪しんで問いました。


「このように空中に花の雨を降らせ、わたしを賛嘆されるのは、一体どなたですか」


「われはこれ帝釈天である」


「なぜ、そのように賛嘆されるのですか」


「われは、尊者がよく般若波羅蜜多を説くのを尊重して、このように賛嘆しているのだ」


「わたしは、ただこうやって端坐しているのみで、いまだ般若について一字も説いてはおりません。それだのに帝釈天はなぜ賛嘆されるのですか」


「尊者は無説、われは無聞、無説無聞是れ真の般若である」


こういって、天地を震動させ、ますます盛んに花の雨を降らせた…というのであります。



(了)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 






















無説無聞の故事ではありますが、般若の境地の欠片すら分からない者が読んでもまったく分かりません。

言葉であらわされても、それはもはや本当の般若ではないということがなんとか分かるだけであります。

それもただ普通の智恵(分別智)で分かるだけですが。。。










したがって般若は、口に説くこともできなければ、耳に聞くこともできません。


もし一字でも説けば、もはや分別にわたり、一語でも聞いたといっても、これまた空ではなくなってしまうからです。


すなわち般若は、一切を超え、言説を絶したものなのです。


「無説無聞是真般若」といわれるゆえんです。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 






















これは例えて言えば、リンゴを食べたことのない者にリンゴの味を教えるようなものでしょうか。

甘くて酸っぱくて・・・などと言葉にあらわすことは出来ても、それはあくまで言葉であって、本物の味ではありません。

悟りの智恵をまったく知らない私たちに、悟りの境地とはこういうものですよと、言葉で教えられても、それは言葉であって、悟りそのものではありません。

言葉を知ったからといって、悟りを理解したと自惚れないように気をつけねばなりませんね。











無説無聞是れ真の般若 (碧巌録第六則評唱)


般若とは、梵語のプラジュニャー、巴利語のパンニャーの音訳で、智恵と訳されています。


しかし智恵といっても、わたくしたちが学問をして覚えたり、思索して得たような、そういう普通の智恵(分別智)のことではありません。


この現象差別を一切空なりと悟って、その上にあらわれた宗教的霊智(根本智)であります。


言いかえると、一切の思量分別を断ち切り、無一物に徹したところから生ずる、悟りの智恵、清浄な仏智のことであります。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 






















難しいです。

一切空、一切の思量分別を断ち切る、無一物に徹する等、まったく分かりません。

修行も坐禅もしたことのない私にそう簡単に分かるものではありませんし、分かると期待するのなら、それはとんでもない自惚れでしょうね。










さて、『南方録』に、

「侘(わび)の本意は清浄無垢の仏世間を表はして、此露地草庵に至ては塵埃を払却し、主客ともに直心の交りなれば、規矩寸尺式法等あながちに云ふべからず。火を起し湯を沸し茶を喫する迄の事也。他事有るべからず」

とあるように、利休は、直心をもって茶の湯を行い、直心をもって人と交わり、直心をもって事を処していこうとされました。


そして、この直心を体得するためのものが利休の茶の湯だったのです。


「小座敷の茶の湯は、第一、仏法を以て修行得度する事なり」

と、『南方録』第一の冒頭に記されているように、利休にとっては、茶の湯は決して趣味や遊びではなく、仏法をもって修行得道する、すなわち直心の人となるのが第一の目的でありました。


茶室はそのための聖なる道場としての意味をもっていたのです。


わたくしたちは、貴賤、貧富、憎愛、利害、得失、そういう分別執着の心の塵埃を払却しているでしょうか。


主客ともに直心の交わりをしているでしょうか。


いま一度反省するとともに、茶の湯の目的、茶室の意義というものを誤らないようにしなければなりません。


(了)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 





















茶道とも茶の湯ともまったく縁のない私ですが、直心の交わりというものには憧れます。

しかし、人にどう思われているか、嫌われていないか、軽んじられていないか等、対人恐怖のとらわれが強いので、分別執着のない心になれるかどうかは分かりません。

せめて、それらの思いに分別執着なく向き合えることが出来るようになりたいと思います。










この直心で受け取るならば、いたるところみな道場ならざるはないのであります。


したがって、いたずらに、さわがしいとか静かだとか、汚れているとか、清浄だとか、場所のえり好みをしようとすること、それ自体すでにまちがいといわねばなりません。


そういう分別執着の心をもっていては、いかに山中閑処であろうとも、決して道場ではありえません。


道場はその場所にあるのではなく、その人の心にあるのです。


『維摩経』には「心浄(きよ)ければ仏土清し」ともいうてあります。



(つづく)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 





















道場の場所よりも心の状態が大切だということは分かりますが、禅寺は山中閑処にあることが多いのはなぜでしょうか。

分別執着を断ち切って悟りを開くまでは、やはり分別執着の元である俗世間から離れた方がいいということなのでしょうか。

場所よりも心が大切だということを悟るためには、一時的に山中閑処で修行することも大切ということかも知れません。

こういうことを問題としていること自体が分別執着なのでしょうね、きっと。











直心(じきしん)是れ道場 (維摩経・菩薩品)


光厳(こうごん)童子が、ある時修行をするのに適した場所を求めようと、さわがしい毘耶離(びやり)大城を出ようとしていますと、ちょうど、この大城へはいろうとする維摩居士にバッタリ出会いました。


「どこから来られたのですか」


「道場からだよ」


「道場ですって?いったいそれはどこにあるんですか」


道場というものは静かな山中とか人里離れたところにあるものと思っていた光厳は、これ幸いと尋ねました。


すると維摩は、

「直心是れ道場なり。虚仮(こけ)なきが故に・・・」

と喝破されたのです。


直心とは、まっすぐな心、正しい心ということです。


混じりけのない純粋な心、分別執着のない心ということです。


わたくしたちは物事に対する場合、美しいとか醜いとか、善いとか悪い人とか、憎いとかかわいいとか、そういうふうにすぐ分別し執着しがちなのですが、元来そのもの自体に美醜も善悪もあろうはずはありません。


それはいわゆる虚仮の相(すがた)にとらわれているだけで、決してそのもの自体の真実のすがたを看破しているとはいえないのです。


だから、そのものの真実のすがたを知ろうとするならば、虚仮の相を離れ、分別執着の色めがねを断ち切って、混じりけのない純粋な心、すなわち直心で受け取らねばなりません。


(つづく)







(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 















私たちは、美しいこと、善いこと、かわいいことを選びがちですが、そういう考え方がすでに分別執着にとらわれているということなんてすね。

ものごとの考え方を根本からゆさぶられます。












ある男が極楽に行こうと思い立ち、なんでも西方十万億土ということだから、十分船じたくをして西へ西へとこぎ出しました。


セッセセッセとこいで、もう相当近くなったろうと思うころ、向こうから船が来ました。


「モシモシ、これから極楽までどのくらいありますか」


「十万億土ありますよ」


イヤハヤまだ十万億土あるのかと、ガッカリしましたが、気をとり直して、またセッセとこいで行きました。


もうよほど近づいたろうと思っているところへ、船が来ました。


「モシモシ、これから極楽までどのくらいありますか」


「十万億土ありますよ」


ヤレヤレ、それでは今までの努力はむだだったのか。


しかし、なんとしてでも極楽へ行こうと思って、またセッセとこいで行きました。


からだは疲れる、腕はしびれる、精も根も尽きはてたころ、ちょうど船が来ました。


「モシモシ、これから極楽までどのくらいありますか」


「十万億土ありますよ」


やっぱり同じ答えです。


どこまで行っても十万億土ある、これではしょせん極楽へは行けそうもないと、あきらめて帰ろうと思い、ヒョイと後ろを振り返ってみると、なんのことはない、極楽が背中にピッタリとくっついていた‥‥という話があります。


極楽は西にもあらで東にも

北(来た)道さがせ南(みんな身)にある



(了)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 





















十万億土というのは、今の自分の心の境地が極楽と離れている距離をあらわしているのでしょうか。

極楽をあきらめた時に、極楽がすぐ近くにあるということをあらわしているのでしょうか。

難しいです。