今頃になって、中谷巌氏の転向を想う。 | 加納有輝彦
テーマ:ブログ 立志伝中の熱血企業家篠田喜作先生と昨日、ラジオ収録の関係で、少しお時間を共にさせて頂いた。篠田先生については、前回のブログで紹介させて頂きました。
先生が、裸一貫で会社を興し、従業員800人近い岐阜県を代表する企業にまで育てられた時代というのは、昭和30年~50年くらいの間の話です。
野田首相がよく例に出す、「3丁目の夕日」の時代ですね。
確かに、篠田先生の企業発展の原理原則は、いわゆる日本的経営理念である。社員は家族の一員であるという信頼関係に基づいた家族的環境の中で、父親代わりでものある篠田社長のために、会社のために従業員は懸命に働いた。
ノルマとかで尻をたたかなくても、最高の成果があがっていたという。
従業員には自社持ち株制度があり、高い配当があったという。ゆえに、労働組合など全く必要もなかった。
朝礼での篠田社長の訓話は、日本の歴史、偉人の話等々、精神的価値をお話しされたという。社長が父でもあり精神的指導者、徳ある指導者であり、従業員は家族としてまとまっていた。これが最強の生産性に繋がったという。
しかし、その後、ある大手企業のディーラー傘下に入り(やがて乗っ取られるのだが・・・)オーナー社長たる篠田社長は代表権を奪われ、企業から派遣されたサラリーマン社長に経営が移り、徹底したノルマ営業の導入と労働組合の結成等を経て、家族的伝統が無くなり、業績はみるみるうちに悪くなり赤字に転落したとう。
20年間、手塩にかけて育てた会社を乗っ取られるという体験は、強靭な精神を持つ篠田先生にとって耐え難いものであった。
やがて、その企業は、外資系に売り渡され、国内企業としては消えるという結末に至る。この未来は、乗っとられ代表権を奪われた篠田先生が予言した結末である。
天に唾するがごとく、非道な経営を行った会社には、やがて天罰が下ると、篠田社長は警告を発し続けてこられたのである。
高度経済成長期の昭和日本の話である。今とは環境も違う。しかし、往年の日本的経営の体現者、篠田先生にお会いして、ふと想うところがあった。
それは、新自由主義の旗手だった中谷巌氏が、新自由主義、グローバル主義を否定し、日本の伝統回帰、つまり資本主義から転向された「事件」である。2009年当時の話であるので、もう3年前の話です。
中谷氏は、グローバル資本主義がもたらしたものは、格差の拡大、環境破壊、コミュニティー破壊、日本の伝統的美質、責任感、当事者意識の喪失、貧困層の増大、、、小泉・竹中路線への批判の理論的根拠を与えたといってもいいかもしれません。
中谷氏は、日本人は所詮、英米人のように冷徹になって利益追求できない性質であるという。彼らみたいに論理のみで経済活動はできない国民性であり、そもそも無理であると。
グローバル資本主義者のように、ただいま、現在、目先のみの利益を最大化する、そのような動き方は日本人にはできないと。日本人は、長い目でみて信用を得ることが、商売道だと考える。損して得とれの精神である。
このような商道徳は、グローバル資本主義には一切ないという。
グローバル資本主義が破壊したもの、日本人の家族的労使関係、当事者意識、平等性、日本のよき国柄を破壊してしまったのだという。(「資本主義はなぜ自壊したのか」中谷巌著)
ふと、中谷巌氏のことを想いだしたのである。
私は、小さな政府、自由経済の価値を尊いと思っています。
しかし、民主党政権の経済政策の底流に流れる、アンチ自由主義、アンチ・グローバル資本主義、これらルサンチマンが、日本の伝統回帰等の流れと合流して、現在の国家社会主義政策となっているのではないかと思います。
日本人のやさしさが微妙に交錯している。
篠田先生のお考えは、徹底的に民間主導の経済ですので、大きな政府を志向する中谷巌氏とは違います。
しかし、あえて、共通点をいえば、確かに日本人の家族的労使関係、当事者意識等の美徳は、実は篠田先生の理論によりますと、最高の生産性を発揮する要素であります。
日本人の美徳、伝統を重んじる人は、往々にして、大きな政府を志向する。
しかし、篠田先生は、徹底的に民主導の小さな政府を志向されてます。
日本人の美徳、商道徳、伝統の発見が、小さな政府、自由主義へと架橋されることが大事と思います。往々にして、それらは大きな政府、統制経済へと向かいます。
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