▼日の丸の起源▼
2010年12月23日
http://bit.ly/JsVfVz
◆君が代・日の丸の由来

一.国旗「日の丸」は平和の象徴、日本の誇り
 
時を遡る幕末、日本が近代の国際社会に参加したとき、日本を代表する旗として登場したのが日の丸です。ペリー艦隊が来航した年の暮れ(嘉永六年・一八五三年)、薩摩藩主・島津斉彬が外国船に対する防備を強めることと、外国船と日本船とを識別するため、日本の船に「船印」として「白帆に朱の丸」の小旗を掲げることを提案しました。
 
幕府はいろいろの議論を経て翌年(安政元年、一八五四年)「日本総船印は白地に日の丸幟」と定めましたが、さらにその五年後の安政六年(一八五九年)一月、幕府は大艦に「白地に日の丸の旗」を掲げるよう決定し、日の丸は「幟」から「御国総標」へと変わり、日の丸が日本を代表する旗、つまり事実上の国旗となりました。
 
聖徳太子が小野妹子を支那の古代国家隋に遣わす時、有名な「日出づる所の天子、書を日没する所の天子にいたす。つつがなきや」の文書を渡し、日本人の気概と誇りを示しました。事実、日本はユーラシア大陸で最初に朝日を迎える国であり、「日出づる所」というのは自然な表現ですが、日本は隋の朝貢国ではないという、隋に一線を画した聖徳太子の気概が看取される表現とも受け取れます。
 
「日の丸」の決定は、日の丸が日の神(天照大神)を崇める日本のシンボルであることからも自然な選択でした。平家物語の那須与一の「日の丸」もそうですが、戦国武将も好んで日の丸を使いました。明治新政府が明治三年一月、太政官布告をもって「日の丸」を国旗として公布し、「日の丸」が今日に至るも多くの国民から日本の国旗として受け入れられていることは、オリンピックをみても明々白々の事実です。
 
 中央の赤丸は「日の本」の象徴である太陽を意味し、円形は日本人の円満な国民性を示し、白地は我が国民の純正潔白な性質と清浄無垢を示すものと言われていますが、その他に、白は神聖、正義、純潔、平和、鎮静を、また赤は熱誠、活気、博愛、誠心、誠意・・を表すとも言われます。いずれにしても、太陽を直接、国旗にデザインした国は日本以外にはなく、国の成り立ちや理想をこれほど見事にあらわした国旗は他にありません。
 
 日の丸は、形式的には歴史的な経緯と手続きを踏んでいますが、国旗は国の顔であるという観点から、日の丸制定の意味をここでもう少し考えてみます。
 
 たとえばアメリカの国旗は「十三の縞」で独立当時の十三州を示し、水平の線は平等の精神を示しています。「星」の数はご承知のように現在の州の数を示します。中華人民共和国の国旗は「大きい星」で人民政治協商会議の共同綱領をあらわし、「四つの星」は労働者、農民、中産階級、愛国的資本家を、「赤色」は人民革命をあらわしています。いずれも我が国とは似ても似つかない意味を有しています。
 
 それに対して「日の丸」は光の根源である太陽をあらわしており、太陽はすべての生命を生かし育む働きをもっています。太陽が象徴するように、真の平和の精神に基づく武の心、これが日本建国の理想であり、世界に比類のない理想が、日本民族の全体の心をあらわすものとして美しい「日の丸」の旗に象徴的に示されているのです。この認識の中から日本人として生まれた喜びと誇り、そして世界の人との真の協和の精神が生まれるのです。
 
 
ニ.国歌「君が代」は世界に比類のない「民主的国歌」
 
今をさる千年前、醍醐天皇が紀貫之に命じて日本最古の「古今和歌集」を編集させました。同和歌集 巻七、賀歌のはじめに「題しらず」「読み人しらず」として
 
  我が君は千世に八千世にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
 
とあります。これが君が代のルーツといわれます。「我が君」であって「君が代」ではないが、長寿を祈り願う祝い歌として人々の間に広く愛唱されてきました。つまり天皇制とは直接関わりのない歌だったのです。
 
 この歌はその後も「新撰和歌集」「和漢朗詠集」など、その他数々の歌集にも頻繁に必ずでてきます。神さまのお祭り、仏の供養のときも、酒もりのときも、いろいろの生活の場面でこの歌が国民の間で自然と歌われ親しまれてきました。「天に口なくして人をして言わしめた」感があるのは、ちょうど日本民族が、稗田阿礼の語りを基礎に編纂された古事記(ふることぶみ)をして、自然なかたちで、美しくも霊妙な民族理念をあたえられたようなものです。この有り難みを畏み戴いてきたのが日本民族でした。
 
 天皇国日本において、これがいつしか、天皇の御世、君が代が栄えることは日本国の栄え、国民の仕合せに通じるものとして、国民の下からごく自然に湧きあがるかたちで国歌になりました。教育現場で偏って教えられているような上(天皇)からの強制では決してなく、日本的な伝統の流れからきた極めて民主的なものでありました。
 
 そして明治三年、明治政府が近代国家の仲間入りをし国歌制定の必要性を認識するにあたり、それまで俗謡・薩摩琵琶歌「蓬莱山」に引用されていた「君が代」の歌詞が、日本の国歌に相応しいとして、軍楽隊がこれに節をつけ、天皇の誕生日に歌わせました。天皇の御代の栄えをことほぐ歌が、同時に民衆の歌でもあったということは、世界の国々における君主と民衆の対立を考えれば、きわめて稀有なことであり、我が国独自の誇るべき国柄があらわれているといえます。そして日本古来の雅楽の旋律をとりいれたこの曲は当時の人々を感動せしめ、明治二十六年には公式に制定され、小学校唱歌集にも収められました。
 
 「さざれ石のいはほとなりて」は、地質学で太古の昔、沈みはじめた日本列島付近の海底に、アジア大陸から風化でくずれた小さな石ころ(さざれ石)が想像もできない期間にゆっくりと堆積し、礫岩としてかたい岩となり、列島が形成されたことが明らかとなりました。日本列島はまさにさざれ石でできていて、「君が代」の歌詞は日本列島の雄渾な誕生をうたっているのです。日本民族の心の中に充満していた「悠久のリズム」が無意識のうちに国民の意思として荘重な歌詞としてあらわれているのです。この歌詞は政府でなく、日本民族が人為を超えた価値をもって、民族全体の総意で決定した調べと言ってもよいでしょう。
 
 この民主的な制定過程は、我が国の誇るべき特色であり、しかも歌詞の平和的で、結びの哲学、日本の心をあらわす美しくも荘重な旋律は、世界に比類なきものといえます。
 
 かつてドイツで世界の国歌の評価制定の会があったとき、君が代は第一の秀歌に選ばれました。これらのことを私たちは堂々と子々孫々に伝え日本国民の常識にすべきなのです。
(文責 濵田 實)
 
 
“京の五条の橋の上 大の男の弁慶は長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる/牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へ上がって手を叩く”
 子どものころに歌ったこの歌にある牛若丸の扇は日の丸の扇だったというのだ。義経はそのまま壇ノ浦の戦いに出ていくが、その時源氏が平氏に対して掲げた旗は白地に赤の現在の日の丸だった。一方の平家が掲げていたのは、赤字に白の日の丸だった。
「源平合戦で平家が勝っていれば、日本の旗は赤字に白の日の丸になっていたかもしれないのです」と松本氏はおもしろそうに語った。
 源氏の後に出てきた武将たちは、織田信長も徳川家康もみな自分たちは源氏の流れを汲んでいるという意識を持った。そして彼らは戦いのときには必ず日の丸の旗を掲げたのだ。たとえば長篠の合戦のときである。
 長篠の合戦は1575年5月21日早朝から始まった。織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼と戦い、壊滅的な打撃を与えた。武田方の騎馬隊は信長側の設けた柵に阻まれ、かつ柵のなかから撃ち出された大量の鉄砲によって敗れ去ったが、このあまりにも有名なシーンは、歴史ドラマのなかでもよくとりあげられるシーンだ。
「この時、信長も家康も家紋をあしらった自分の旗を持っているのですが、連合軍として戦うときは日の丸を掲げていました。対する武田側もまた、日の丸を掲げていました。つまり日本を支配するのは自分たちだと思ったときには、日本の国印、日本全体の国の印として、日の丸のイメージが武将の頭のなかに入っていたのです」
 
▼日の丸の起源▼について詳しい。
http://bit.ly/IzpT1Z
 
●<「国旗」・「国歌」論争に一石>▼このページに載っている。http://bit.ly/IbFzd1
料理や名前書くのや いや根本に次一つ書くのも初めは強制ではないか。
大学出てる人間の思考はおかしい。
愛国心がアレば歌いたくなるし 行きたければ歩き出す。
屁理屈を付け足して自分の意見を押し付けている。
 
その他ヤフーの検索だけでも約78,700件アルト出た。
いい機会だから日本の原点である国旗を探ってみたらどうかな。http://bit.ly/IU8HBO
 
●国旗及び国歌に関する法律 - Wikipedia http://bit.ly/IbZ4PT
 
コメント
 
AYU   2010年12月23日
「日出づる所の天子、書を日没する所の天子にいたす。つつがなきや」を
聖徳太子が書いたものとするのは推測にすぎません。
この文面は随書にしか記録されていないもので、
書いたのは阿毎多利思北狐という人物です。
日本の御用学者は「阿毎多利思北狐(タリシホコ)」すらも
「阿毎多利思比狐(タリシヒコ)」の書き間違いだと勝手に決めつけてますが、
これも推測にすぎません。
隋書には「阿毎多利思北狐」と書かれているので、阿毎多利思北狐なのです。
 
 
AYU   2010年12月23日
上記書き込み、意味がわかりにくかったので、捕捉します。
阿毎多利思北狐が書いたのは随書ではなく、
「日出づる所の天子、書を日没する所の天子にいたす。つつがなきや」という
書簡の内容です。
 
「阿毎多利思北狐」の「阿毎(アマ=天)」は「アマ」という呼称への当て字で、
この人物が天孫族の出自であることを表していると考えられています。
日本では「天孫族」といえば、天皇の家系を意味し、
明治政府のとった、日本人が単一民族であるという政治的配慮から、
今でも日本特有の一族と思い込んでいる日本人が多いのですが、
少なく見ても、百済(余氏)、高句麗(高氏・淵氏扶余族)、扶余(扶余族)、
アルタイ・ツングース語系の王族が
「天孫族」を名乗ってきているということは、
大陸・半島に残されたさまざまな文書に残されているようです。
ちなみに扶余(プヨ)とは
ツングース語で、(ツングースの)鹿のことだそうです。
最近の欧米の言語学者によれば、
高句麗語の多くが現在の日本語として使用されているということです。
誰にでもわかる高句麗と日本の共通点として、
神器を継承する風習と、太陽樹の考え方、
遺跡に残された三足烏、北斗七星、四神などの図案の存在などがありますが、
太陽樹、三足烏に関しては商(殷=ツングース族国家)にも見られるものです。
まあ、日本人が単一民族でないことは、
民主党の議員や紅白歌合戦に出る芸能人をみれば、あきらかなことですが(笑)
 
 
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