■お口吸い申す


当時の戦国大名は男色(衆道)を武士の嗜みとしていたのですが、秀吉は男色への関心がまったくと言ってよいほどなかったようです。ある日、家臣が気をつかって一番と評判の高い美少年を個室で秀吉と同居させたのですが、秀吉はその少年に「お前に妹はいるか?」妹がいると答えると「妹はそちに似ていて美人か?」と聞き、男色にはぜんぜん興味を持たなかったそうです。

身分の低い家から出世した男でしたから「男色」などに興味がなかったのです。身長150cm足らず体重50kg.の痩身タイプの「猿」「禿げ鼠」と信長にあだ名された、醜く貧相な男でしたから、女から相手にされそうもないと思われがちですが、事実はとてもモテ男だったそうです。巧みな話術、好色、女にマメ、優しい、高度なアレテク、財力、権力などをフル動員してアタックしたそうです。

生涯正式な結婚は2度で、その多くは側室や「お手つき」とのアレがほとんどでした。逸話では、1552年に木下藤吉郎と名乗っていた15才の時に、主君として仕えていた駿府の今川氏に属する頭陀寺城(浜松市)の松下加兵衛之綱から、美人で名高い娘「きく」と言う12才の娘を与えられたことがあります。

「美女と野獣」というには失礼ですが、秀吉は、結婚すると数日間、お役ごめんを申し出て、寝所から外に出なかったそうです。この逸話が本物なら「きく」が最初に結婚した娘となります。次の正妻は「ねね」でした。


[公式]新説あぶな絵伝

秀吉がどのように女の子を愛したかは、御殿医の小瀬甫庵が記したとされる「甫庵太閤記」にも書かれています。後世の幾度かの改編で創作のされた部分が多いそうですが、幾度も秀吉は好色、狡猾、変態、執念深い男だったと書かれていて、実際もそのような人物だったのではと推察されます。

有名な恋文に「名護屋にて釘付け候。恋しそもじさまに会いたさ募るばかり。近日中に大坂の表へ引き揚げし時は、そもじのお口を吸い申すべく候。」と告白してます。この時、恋文をもらった淀殿は32歳で女盛りでしたが、秀吉は61歳でしたから、そろそろアチラのほうでの激しい慰めはムリな年代だったかもしれません。けれど、老いてますますみたいな男の執念を感じさせる恋文だとおもいます。

伝えられる所、若い時は一晩に複数の女の子とアレをした絶倫男だったそうです。女中たちの噂では、全裸にして、女の子の足の間まで舐める癖があったそうで、どんな子もあんまりな快楽で泣いたそうです。当時のアレは女の子の満足など考えもしないのが普通でしたから、秀吉のような愛し方は珍しかったのだと思います。生まれながらの武士ではありえないアレだったようです。だから、女の子はみんなから期待したとおもいます。「気を楽に 気を楽に して、いくさをするものぞ」は秀吉の口癖でしたが、夜のいくさでも女たちに何度もそう言って攻めたてたであろうこと想像しちゃいます。(完)


「墓マイラー」のためのメモ:
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豊臣秀吉は1598年8月18日(享年62歳)に亡くなりました。暑い日だったそうです。死因については「脚気」など様々な説が唱えられており、脳梅毒、赤痢のほか、毒殺説もあるそうです。「胃がん」だったとする説が有力のようです。辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことは 夢のまた夢 」。豊臣秀吉の墓は阿弥陀ヶ峰(京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町)の頂上にあります。元々、この山の中腹に墓と豊国神社があったのですが、元和元(1615)年、豊臣家滅亡と共に徳川家康によって破壊されてしまいました。明治30(1897)年に秀吉の300年忌に「豊国廟」(ほうこくびょう)と参道の石段(565段)を登り切ったところに高さ約10mの巨大な五輪塔が建立されました。他にも広島市東区の不動院 には「遺髪墓」が、また 山口市の俊龍寺 にも毛利家が建てた「供養墓」があります。また、和歌山県の高野山(南海高野線)奥の院にも大きな「豊臣家墓所」があります。戒名は「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」と長いです。

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