昨日、息子の辞令交付式が行われ社会へと旅立ちました。
4月2日、世界自閉症啓発デーのこの日、この投稿を持ちまして、私個人の全てのSNS投稿を終わりにします。
初めての投稿から15年2ヶ月と5日、5,543日目となりました。
この日を最後にSNSの配信を終わりにすることは、引き際を考えており、半年位前から身近な人には伝えておりました。

SNSでの活動は、2009年1月29日、障害のある子どもを抱える父親からの視点として、息子の3歳の誕生日からアメブロ「マサキング子育て奮闘記」をスタート。
https://ameblo.jp/masaking129/
そして、2010年1月29日、息子4歳の誕生日からTwitter(当時)をスタート。
https://twitter.com/masaking129
その後2011年3月、東日本大震災を期にfacebookをスタートさせました。
https://www.facebook.com/oyajilink

3歳から18歳成人となった今日まで、幼稚園入園から高校卒業まで、ずっと息子の成長を書き続けました。

障害のある子どもを抱える一人の父親が、社会に対してSNSを活用し、全国にどこまで発達障害に対する理解啓発が行えるか?を目標に、息子の成長と共に発信してきました。
ブログからご縁をした仲間たちと全国各地で交流。その代表的な仲間たちと共に、2012年11月13日に、障害のある子どもを抱える父親たちがリンクして支援する「NPO法人おやじりんく」を設立。
その父親からの支援活動は、テレビや新聞、雑誌などのメディアにもたくさん取り上げて頂きました。



その約5年後、2018年4月1日に、父親視点から当事者視点に変え「NPO法人輝HIKARI」に名称変更。
国の障害福祉予算への要望や、特別支援教育の拡充、職員らの処遇改善への要望、そして障害者支援に関する法制化などにも携わらせて頂きました。
全国では北は北海道から南は鹿児島まで44都道府県を訪問。150の市町村と300を越える施設見学、約4,500名の方と名刺交換をさせて頂きました。
福祉施設としては、今日までに放課後等デイサービス4ヶ所、児童発達支援事業所2ヶ所、相談支援事業所1ヶ所を運営する規模となりました。
輝HIKARIは職員約60名、事業規模としては年間約3億円の事業費としても拡大。
息子の障害をきっかけに、たくさんの協力者が集い、一人のオヤジがここまで来れたのも、我が子に対する思いと、周りの方々の協力と支えがあったからです。

私は、議員や専門家でもなく、公的立場でも無ければ、市民活動家でもなく、あくまで我が子の為に、1人の父親としてどこまで社会に対して一石を投じる事が出来るか?を挑戦してきました。
その息子が今年1月29日に満18歳を迎え成人となり、3月に高等支援学校を卒業。そして昨日、無事に社会へ送り届けることが出来ました。
これからは息子主体の当事者視点であり、真輝の人生です。
もう私は個人的に息子の事も含め、家族の事も含め、何かを発信するということはありません。
ただ、この15年間の活動の中で、輝HIKARIの代表理事としての活動もあります。
これからの私の活動は全て、輝HIKARI代表理事としての活動であり、輝HIKARIホームページで投稿していきます。
https://x.gd/pMP63

また全てのSNSアカウントや投稿はそのままにしておきます。
父親として、個人のSNS配信は終わりますが、支援活動は今までと同様に全国で続けていきます。
最後に添付した写真は、真輝の3歳の誕生日に撮り、初めてブログで投稿したときのものです。もう1枚は先日の息子との卒業旅行で撮った父子の写真です。

15年間ありがとうございました。

 

 

このたび、塾・学習塾のポータルサイトとして公開している「テラコヤプラス」にて、特定非営利活動法人輝HIKARIが紹介されました。
テラコヤプラス by Amebaは、株式会社CyberOwlが運営しているサービスです。

Amebaはアメブロとして、このブログが2009年1月29日から「マサキング子育て奮闘記」として息子の子育てについて書き始めた縁あるサイト。
このアメブロがキッカケとなり、団体設立の根幹になる理事たちとブログを通じて知り合い、そして2012年11月にNPO法人おやじりんくを設立。
団体設立から9年が経ち、改めて歴史も振り返りながら、テラコヤプラスさんの取材を受けました。
是非御覧下さい。

特定非営利活動法人「輝HIKARI」を取材!障がいのある子どものための居場所づくりとは?

*画像はテラコヤプラスさまホームページから引用しております
 

久々、ニュースについて意見をもうしたいので書く。

看護師500人の確保依頼 東京五輪パラ期間中に―大会組織委

この首都圏が緊急事態宣言の最中に、3ヶ月も先のオリンピックの事で看護師の派遣要請をするって何ごと?
そもそも今は「東京に来るな!行くな!外出控えろ!密は避けろ!」で、飲食店やレジャー施設は全部自粛要請されている段階。
その最中に世界的な祭典かもしれないが「祭り」の行事で、500名もの看護師を依頼してるのはどういうこと?って感じる。

いま看護師は50万円の月給でも病院には勤務しないという人もいる。
実際に働いている看護師も、家族に病院勤務を反対されたり、月給が下がってでも家族の健康や本人の健康を留意している人もいる。

その中で、オリンピックの事で看護師の派遣要請って?
その理由は、開催中にコロナが発症したりクラスタが起きたりしたときの対策としてでしょ?
ただ単に絆創膏を貼ったり、傷薬を塗るために看護師の派遣依頼をしていないこと位は容易に分かる。
ということは、オリンビック中に「感染の懸念がある」ということを主催者も感じているということ。
では、そのリスクを追ってまで、開催する意味って何だろう?
ただでさえ、看護師や医師は、いまコロナ対策で七転八倒している。

最前線で働く人たちはとても大変で、出口の見えない辛さと、目の前の課題で必死なはず。
そして、他の看護師は「お金をたくさんもらってもコロナ治療はしない」と言っている。
ということは「500名の看護師」というのは実際に、コロナ治療に関わっている人たちを要請していることになる。
3ヶ月先に患者数や感染者数がどのようになっているか?も検討つかないこの緊急事態宣下の最中。
ましてや今回の緊急事態宣は、医療崩壊を防ぐことが目的のはず。
その中で、コロナに最前線で働く看護師たちを今の段階で要請することが到底理解出来ない。

それだったらいま一番リスクを回避するのは、オリンピックの無期延期または中止の決断ではないか?
オリンピックを中止した場合、大変な赤字の損失がでる。
だから開催を余儀なくされている背景も分かる。
しかし、無観客、または海外の人たちの観戦が無い中で、また世界のアスリートたちが、コロナにより参加出来ない事態になったようなオリンピックでも開催する意義がどこにあるのだろうか?

主催者が不測の事態を想定して、看護師などを派遣要請する気も分かるが、赤字補填と、対面を繕うだけの開催ではなんの意味も無い祭典になってしまう。

確かに開催したあと、また何もなく無事に開催した時には「やって良かった」という言葉も出てくるかもしれない。
しかし、今は目の前にあるリスクの方が大きく、国民に何度も何度も自粛を求めている時。
飲食店をはじめ国内サービス業が、数々の自粛や規制の要請をされているこの状態で「オリンピックの時に・・・」と言っていることが視点がずれていることを分かった方が良いと思う。

 

今日は息子の15歳の誕生日。そしてこのブログをスタートして12年目。
3歳からスタートしたフェーズも0フェーズから3フェーズを終わり、今日からいよいよ第4フェーズのスタートです。

 

 


この15歳の誕生日に第一志望としてた高等学校の合否発表。


見事合格しました。
この資料にもあるとおり、高校は息子の意思決定に任せました。
自分で選択した高校、そしてその高校に入るようにこの半年間は、コロナ禍の変革の時でも努力していきました。
その結果、見事自分の意思で決めた学校への入学許可が出ました。
合格の番号の前で記念撮影。
その後は、お祝いとして息子が行きたがっていたスターバックスへ。

 



このブログを始めた頃、3歳の時の真輝は、ファミレスに行っても椅子に5秒と座っていられなかったほどの超多動でした。
でも今では、息子と2人でユックリとお洒落なカフェでケーキを食しながらカフェで過ごす事もできます。

大きな成長。

 

志望したのは「工業技術」

息子はパソコン、iPadなど、ITが物凄く好きなので、そちらの方に進むのかな?と思ったけど、あえて「ものづくり」の道を選択しました。

このブログで10年前に書いたブログを読んでください。

 

https://ameblo.jp/masaking129/entry-11065325814.html

 

息子の小学校就学の選定時に書いたブログで以下のように私は望んでいました。

「今回は真輝の将来についての願い(父としての希望)について書きたいと思います。」

「ボクは真輝に将来なってほしい職業が3つほどあります。」

この3番目に

「日本のものづくりを象徴するような、製造系のお仕事に就いてほしいと思っています。」

この先はどうなるか?分からないけど、親の押し付けではなくあえて自己の意思決定を尊重した結果、望んでいる通りになっている。

親からみててもこんなにストイックに努力する姿は、妻と二人で「本当に俺たちの子なのかな?」と思うほど真っ直ぐに、真面目に生きています。


そしてこれからいよいよ社会への自立に向けた3年間の準備、第4フェーズがスタートします。
まずは、15歳の誕生日、そして合格とこのダブルのお祝いをしたいと思います。
 

久しぶりブログです。
今日は、息子の子育てフェーズの第3フェーズの最終日です。
私は自分の講演で、息子の子育てについて以下のスライドで説明します。

0フェーズは、このブログを開始した、2009年1月29日からスタート。

息子の3歳の誕生日の時です。

そして第1フェーズは小学校教育が始まる小学校1年から3年生まで。この間の3年間は特別支援学校に通いました。

そして第2フェーズは小学校4年から6年生。これは地域の普通小学校の特別支援学級に通いました。

そして第3フェーズは中学校1年から中学3年生まで。

 

このブログがスタートしたのは2009年1月29日。以下のブログが初めて登校したものです。

 

 



懐かしいですね。もう12年前です。

この時はとにかく発達障害(自閉症など)については全く分からず、先の見通しも見えず無我夢中で、我が子の障害と向き合っていかなければならず、全てが「追い込まれる」ような気持ちで子育てしていました。

そんな息子も明日で15歳。


これは先週、息子とランチを食べた時の写真です。

この日は高等支援学校の受験日でした。

受験が終わってホッとした時の息子を撮りました。

もう身長も163cm。妻より10cmも大きくなりました。

こんな大きくなりました。

そして明日はいよいよ第4フェーズの始まり。そして支援高等学校の合否発表の日です。
その前に書きたい事はたくさんあります。
でも今はここまでの12年間を振り返り、ユックリと静かに時を待つことにします。

 

いまこの時だからこそ記しておきたいことがあった。

私と岡山県総社市長の片岡聡一市長との初対面の時のこと。
私は2014年8月6日の午後に初めて、片岡聡一市長と出逢い、1時間30分に渉り息子と同席のもと懇談させて頂いた。

その時の話はこのブログでも記載しているので改めてご一読願いたい。
https://ameblo.jp/masaking129/entry-11910414778.html

当時、障がい者を1000人雇用すると片岡市長が決断した時、たくさんの方が反対をされたということは何度も書いている。
当時の背景で言うと、リーマンショックの煽りを受けて、普通の求人数も総社市の有効求人倍率はなんと0.29倍という低倍率になっていた。一般の人でも就職がとても困難になった。

その中で障害者雇用を推し進めた決断をした内容が以下の言葉で市長が私に伝えてくれた。

「金子さん。もし金子さんがとある船の船長で、その船が沈没しかけているとしたら、金子さんは船長としてどう決断する?」と。
「正にその時は総社丸という船が不景気によって沈み掛けていたとき、船が沈みかけている時はお年寄りや身体の不自由な人から助けるよね?私はその船長として決断をしたのは、弱い立場と言われる人たちからの救出を考えた。それが雇用が冷え込んだときに考えた障がい者の方々の雇用だった」と。

「このままでは障害者の人の雇用はどんどん遠のいてしまう。総社市という市全体で考えると、まずそういう就職が困難な人たちに対して、市が率先して仕事を調達して与える事が先決と判断した。まずは市として、障害のある人たちを優先して仕事をして頂き、そしてチカラある人たちは、自分達でその困難に対して努力して乗り越えて頂く。そうした時に、結果的には市全体が底上げになると確信していたからだ」と。

これが先頭に立つ人の決断だと感じた。判断では無い決断である。
決断は正しいとは限らない、決断は間違っていてもそうでないとしても決断が必要な時がある。

今、国民1人1人が、モラルの上でも、社会的な立場でも決断を迫られているとき。
判断ではなく決断の時。
私は国からコロナウィルスによって、非常事態宣言が出されるこの時こそ、片岡聡一市長のこの決断を思いだして、行動していきたいと思っている。


知的障害者は、生きている価値があるのですか?

http://teamaoi2003.com/post/3133

 

いまFacebookの友達らで、このブログをシェアする方が何人かいらっしゃる。
私は『障害のある人の生きている価値』について、生産性と考えた時、糸賀一雄氏の言葉が一番心に響いた。
生産性とはどうしても物(有形資産物)を作り出す価値と捉えてしまうが、人を笑顔にして、心を温かくする無形資産でも生み出す生産価値があると思う。



糸賀一雄氏
《この子らはどんな重い障害をもっていても、だれととりかえることもできない個性的な自己実現をしているものなのである。人間とうまれて、その人なりの人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちのねがいは、重症な障害をもったこの子たちも、立派な生産者であるということを、認めあえる社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、うまれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである》

 

今日は愛息、真輝の13歳の誕生日。
平日なので家族でささやかに誕生会を開催。

 


息子の発達障害について社会に発信して理解支援を求めた、3歳から開始した「マサキング子育て奮闘記」も今日で10年。
「十年一昔」
世の中の人やものなどが移り変わってしまう10年で我が子の将来を案じ、ずっと成長を見守ってきた息子も今日で13歳。
10年前は二語用語すら言葉が困難だった我が子が、今では朝1人で起きて朝食の準備や学校の支度を行い出かける。
休日は1人で電車に乗り買い物をして、ロボットプログラムなどを楽しみ、時には友達と一緒に遊ぶこともしている。
3歳から6歳では初めて社会を経験し、6歳から9歳では特別支援学校で個別療育を行い自己肯定感を養った。

 

またこの時期は妹の真彩も誕生して「オニイチャン」となった。

 
 
 

 
 

そして父親からの理解支援を行う"おやじりんく"もつくった。
9歳から12歳は普通の学校に行って、一般の社会交流を行い協調性を身につけ、去年からは中学1年生になり、体力向上と共に、妻の身長も超えて大きくなり、人に対してもサポートから支援をする立場に少しずつ変化している。
私は38歳にして、遅い初子として息子の父親になり、この13年間で我が人生を大きく転換した。
妻は20歳にして、成人を迎えたばかり、何も社会経験が無いなかで母親になった。
カップルから夫婦、そして家族へと変化した我が家は、真輝の課題と向き合うことでたくさんの学び経験を積んできた。
自分の銘として「障がいのあることが可哀想や不幸ではなく、障がいと向き合えないことが可哀想であり不幸である」との想いのなか、我が子を「可哀想」と思われないように、息子と向き合っていくことが今までの、そしてこれからの自身の取り組みであると、改めて今日決意する。
13歳の誕生日おめでとう。

久しぶりのブログです。
先週はこのブログがAERAでも紹介された事により、アクセス数が急増しました。
紹介された内容は下記のアドレスで見れます。

http://dot.asahi.com/aera/2016060600192.html

ただ最近はめっきりブログ更新が途絶えていました。

久しぶりの更新で何を書こうかな?と考えた時、いま発達障害の傾向がみえる、お子様の成長で悩まれている親の方が、少しでも安心できるような内容にしたいと思いましたので、成長へのつまづきというタイトルで2つほど書きたいと思います。

私の息子、真輝が2歳10ヶ月で診断を受けて、今では10歳になっていますが、この間で息子の事で悩んだ事は数知れず・・・辛い思いをしたり悲しんだり、不安になったことも数知れず・・・。
それは今でもずっとずっと続いています。

ただその中で、真輝のことで悩んだ時期が2つほど大きな波がありました。
その1つは4歳の時。
その時期は真輝はとても言葉の発達が遅く、オウム返しをして会話というコミュニケーションが弱い時があり「このまま会話や言葉の発達が無いままでは?」ととても不安になった時があります。
その時に、その悩みを救ってくれたのが、当時通っていた市の療育センターの担当医の言葉でした。
「真輝君って、オウム返しも多いし、会話もなかなか成り立たないけど、でもこの子は言葉の伸びしろは持ってますよ。多分、頭の中にたくさん言葉をため込んでいますね。ある時期に爆発したように喋り始めると思います。逆に小学校高学年くらいになったら、言葉でトラブルを起こすタイプになりそうですね」と言われました。
それから6年間経って、今では小学校5年生。
この担当医が言ったとおり、真輝は爆発的に会話ができるようになっていて、逆に言葉が問題でトラブル(小さなものですが)を起こすくらいに喋るようになりました。

親ってその時期の子どもの発達を「点」として見てしまう傾向があり、とても不安になってしまう事もあります。
しかしそういう時こそ、客観的に冷静に、そして他の子どもの成長をたくさん見てきている専門医の言葉はとても参考になります。
今思えば、あの担当の医師って凄い観察力があったんだなって感じます。
今では他の病院に行ってしまって連絡は取ることが出来ませんが、また機会があったら今の真輝を伝えて、先生と語り合いたいなぁって思います。
もうひとつの体験はまた後日書きますね。

真輝は今日から小学校4年生になりました。
3年生までは特別支援学校に通っていましたが、4年生からは転校して、地元の普通小学校の支援学級になりました。

初日登校の転校はこの時期ではあり得ない雪となり、今まで支援学校はバス通学でしたが、普通の小学校は徒歩通学。この寒い雪のなか、慣れない道のりを約30分の徒歩で通学しました。
しばらくは保護者が行き帰りに付き添います。初日の初登校から、近所の通学班に加わり、私も一緒に学校まで徒歩通学しました。


子どもたちの歩くスピードも早く、真輝も小走りになりながら一生懸命付いていきました。
でも、寒い中慣れない道のりと雪が降る環境で手がかじかんだ様で泣き出す始末。

なんとか学校について、新しい環境のスタートになりました。
支援学校の時は、小学部だけで80名程度。でもこの小学校は10倍以上の1000名が居ます。
かなりの人数に圧倒されながら、何処に行けば良いか?何をすれば良いか?誰に聞けば良いか?など右も左も分からない状態が続きました。

今まででの支援学校の環境がどれだけ配慮されていたのか?を実感しました。

でも真輝のような軽度知的の情緒障害は、これから大人になる時「一般社会」と大きく接していかなければなりません。

「障害」という立場に頼っていたらいつの日か、必ず苦労をしてしまう時が来ます。
「障害」という立場で護られる環境から、大人になっていくとき「障害」を護れる立場になっていって欲しいという、私の子育ての思いがあり、この小学校4年から6年生までの第2フェーズは「社会」という厳しさと「すべて自分の思い通りにいかない」という気持ちの折り合いや、同世代の子ども達との新しい交流から色々と学んで欲しいと思い、あえて護られている支援学校から転校をさせました。

でも真輝の第一フェーズ(小学校1年から3年)までは、個別支援と療育は成功したと思っています。
親との強い信頼関係と「最後は親が味方で居てくれる」という気持ちは真輝の中で強く根付いたと思っています。
「家族」という信頼のあるプラットフォームから「社会」という自分の思い通りにはいかないという場へ進み、新しく色々と学んで欲しいと思っています。