承前。
大峠古戦場で、ただちにソレとわかる遺構は下図のとおり。笹藪をかき分ければ、まだまだ見つかるだろうが、ここへ来るまでに時間がかかりすぎている。
前日は道を間違えたり橋の流失というサプライズがあったにもかかわらず、予定時間に宿舎まで辿り着くことが出来た。この日は朝から大きなハプニングは一つもないが遅れているのだ。細部の調査は他日を期して、古戦場の全体像を把握するにとどめることとした。
戊辰戦争当時、野戦築城で複郭陣地を設けての縦深防禦の概念はなく(例外として三線陣地を築いた母成峠戦がある)、塹壕は単線である。また、当時は砲兵も歩兵と同列に並べることが多く、この砲兵陣地が最前線に位置するのも頷ける。
稜線から会津側を俯瞰撮影する梅原義○。大峠を攻め破った館林、黒羽の両藩兵が追撃して行った会津方向を撮影しているところ。
砲兵陣地の現状は真っ平らだが、この状態だと砲車は発射の反動で後ろに下がり続けて止めようがない。発射位置の後ろに窪みを設け、さらにその後ろにマウンドを造れば本式である。狭隘な場所では砲車にスパイクを履かせ、砲車を真上に飛び跳ねさせて反動を逃がす場合もあるが、当然ながら故障を誘発する。
この砲兵陣地跡で早めの昼食をとり、出立。予定では三斗小屋温泉へ戻るコースを辿り、そこから那須岳ロープウェイ山頂駅を目指すはずだったが、ルートを変更した。ここまでハプニングがなかったにもかかわらず予定が遅れたのは、三回も徒渉しなければならなかったからだろうということで、むしろ逆に上へ登り、沢のない尾根道を進むこととする。
1125時、尾根道を歩き始めたが、やはり後ろ髪を引かれる思いあり。しばし振り向いて大峠古戦場を俯瞰撮影する。
やや高い位置から見ても塹壕線はクッキリだ。その上にある登山道を人が歩いていたので、大きさが確認しやすい。
尾根道の勾配はキツイが、見通しが良いため現在位置を確認しやすい。また、一本道なので道に迷う心配がない。難点は下山まで水を補給できる場所がないことだ。
1154時、尾根道から三斗小屋宿跡方面を望む。↑写真の左端近くに沼ッ原ダムが見える。あそこから二本の足で歩いてきたのだ。
1242時、大峠から三本槍岳までの中間点に達す。困ったことにペースは非常に遅い。
1254時、遅れたツキノワグマの位置を確認。↑写真の中央からやや右よりに黄色いTシャツを着て歩く姿が辛うじて見える。置いてけぼりを喰わせば遭難しかねず、待つほかない。
1321時、まだ追いついてこない。
1350時、三本槍岳の頂部を間近に見る。ここからさらに朝日岳を越えなければならない。昼食後のペースは、標準所要時間の倍以上かかっている。慎重居士のツキノワグマも遅れを気にしていないわけではなかったようだが、歩く間は顔を下に向け足下を見たまま一歩ずつ慎重に歩き、あるいはストックの長さを微調整したりと、用心深さはいつもどおりであった。
1603時、朝日岳の頂部を間近に見る。予定では、すでにロープウェイに乗っているはずの時間である。想定以上の時間を費やしたため、水の残りが乏しい。
↑の1枚と↓の2枚は梅原義明撮影、時間未詳。朝日岳から峰の茶屋へ向かう道。強風に備え岩壁に鎖が用意されている。このときは幸いにも無風だったが鎖を握っていないと恐ろしい。
あの慎重居士が、ここを通るのにどれだけ時間を費やすだろうかが気になった。
さすがは慎重居士、鎖を握って手を痛めてはならじと軍手をはめている。その手袋する時間を節約して欲しかった。山中で日没を迎えれば、それは即ち遭難である。
そのあと、雪渓を三度も通過しなければならなかった。溶けかけの雪を踏むので滑りやすく、急傾斜だから滑落すれば死ぬ。ここでも慎重居士は雪に手をつくと冷たいので、雪渓の真ん中で軍手をはめていた。そこに止まっているより、さっさと通過した方が安全なのだが?
1708時、峰の茶屋跡に達す。最終のロープウェイには間に合わなかった。ここからは単調な下りだけで、下山口までの標準所用時間は60分。そこから大丸温泉までは舗装路を800メートル。あわせて70分であり、危険箇所はない。なんとか暗くなる前にたどりつけると思ったのだが……。
慎重居士のツキノワグマは舗装路に出てからもストックをつきながら慎重の上に慎重を重ねる着実な歩みを見せ、通常なら10分で歩ける舗装路800メートルも30分かけて歩いた。大丸温泉のバス停についたときは1900時を過ぎて足下が見えにくいほど暗くなり、終バスが出たあとのことであった。
今回の踏査参加者3名のうち、最も道具を調えていたのは慎重居士のツキノワグマだった。靴もザックも新しく、ストックに軍手も備え、保温水筒を二つも持っていた。だが、局地戦闘機だなと思ったのは、彼が地図もコンパスも用意していなかったからだ。計画の全体を見通すため地図とコンパスは必需品なのだ。
歴史研究にもいえることだが、その時代の全体像を大まかに把握していなければ、一部分を見たときに、それが全体のなかで何処に位置づけられるかがわからない。足下だけを見ていてはならないのだ。ときに顔を上げ、目指す山頂を望み見ることをしなければ、どれくらい頑張って歩を進めるべきか、まったくわからない。
だが、世間には足下しか見ていない研究者は多い。そんなに視野が狭いから愚説、珍説が次々に出てくるのだなぁと思ったのであった。
おわり
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