西村眞悟氏の大日本帝国憲法論 | 加納有輝彦
テーマ:ブログ 来る憲法記念日にちなんで、チャンネル桜で、憲法に関し討論をしていた。http://www.youtube.com/watch?v=-mSAPK-nsNk&feature=relmfu
全部、つぶさに見たわけでないのですが、西村眞悟氏の「現在有効な我が国の憲法は、引き続き大日本帝国憲法であって、日本国憲法は、無効である」という主張が、それなりに説得力があった。
内容の賛否というより、「説得力」「修辞」これは学ぶべきものがあると思いました。つまり、『感動』があるという事です。ご参考までに、テキスト化しました。
チャンネル桜は、幸福実現党の新憲法案の「皇室」の扱いを否定している。私は、これらの問題に関し技術論でなく、心で出来るだけ理解したいと謙虚に学びたいと思っています。
西村眞悟氏発言
私の立場は、この日本国憲法と称する文書は憲法としては無効ですと、戦後体制を形成する文書ではある。規範ではある。
したがって日本占領体制の基本法であるという位置づけですから、日本国憲法が形式的に存在するか否かに関しては、無効なものは存在しません。
したがっていま存在しているのは、大日本国帝国憲法です。明治22年の制定のね、そのうえでいいかわるいかは別にしましてね、そのうえで、昨年起こった東日本大災害に際して、いずれの規範が現実のことに対処しえたかといえば、大日本帝国憲法ですわ。
あまり報道されませんが、戒厳令布告してもいい事態でした(おそらく震災のどさくさにまぎれての外国人犯罪のことであろうか)わたしは現地に二か月居続けたあの不詳宮島氏(ヒアリング困難?)とかに聞きましてね。これだけしかいいませんわ。
そこでね、あのときの天皇のね、ご存在はいかなる存在だったか、最高の危機管理者としての存在だったと、権力者としての危機管理者ではない、しかし日本の危機管理者、つまり統治者だったと。
それは大日本帝国憲法第一条の「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治する」そのものの姿であったなと。
そこで、天皇などはひい爺さん知らんといわれたが(幕藩体制下では、藩主に仕えていたので、天皇の存在を知らない農民がいたという意見)申し上げますと、お爺さんがしゃべっておられた日本語の中に天皇は存在している。
敬語の存在、それから万葉集以来、それらの中の和歌をですね、また百人一首として庶民がいまに伝えているけれど、その歌の中にも天皇の存在は厳然としてある。
それは権力者としての現れではないか、文化の中に歴史の中に、厳然としてあるんであって、そりゃ、知らん人もおったでしょう。
いまも天皇知らんという奴もおるかもわからん、お爺さんが知らなかったから日本国民に天皇はなかったんだという論法は今の議論の前提としてはふさわしくない。
我が国家が近代化するときに何が必要だったあといえば、国家の姿、ネイションの姿これを確認する事が必要で、大日本帝国憲法と同時に発布された教育勅語には、見事にネイションの姿を言い表して昨年の危機に遭遇した時にそれはまさに具体化していると、これを見るか見ないかこれが議論の分かれ目です。
目をつぶればそれがなくなるというのならかまわない。われわれは、国家の将来に存続に、サバイバルに責任を持つ立場で議論しなければならない。したがって天皇は存在する。厳然とそれは制度でも何でもない、文化の中にも歴史の中にもあるんだ。
引用以上
さて、この他に討論において、「国民主権」とはなんぞやとの議論があったが、「納税者としての国民」という論点が皆無であったのが、気になった。
国民主権が、国民の承諾なくして権力者に収奪(徴税)を許さない。「代表なくして課税なし」の議論が全くなかったのが気になる。
彼らの描く「国家」が、官と民の、官の方に重きを置いているのが気になるのである。つまり、自由民権運動の系譜がおろそかにされていると感じる。
彼らの描く「国家」が、大きな政府となり、国民を抑圧する可能性を一応、気に留めておく必要があると思います。
西村眞悟氏の国家像も、官が中心であり、民が抑圧される危険は「あり得る」と思います。ここは注意深く見守りたいと思います。
西村氏のいう官僚とは、天皇の官僚(天皇の赤子)であり、すなわち国民の官僚ということになる。国民は天皇の子供、家族というイメージのようだ。ここは共感もするが、どうだろうか。
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