私の時代(法科大学院制度発足時)は、学生においても、法科大学院マ
ンセーな人はそれなりにいました。
しかし、今の学生さんとお話ししていると、マンセーな人はほとんどみなく
なりました。
が、批判する人も見ません。
なぜでしょうか。考えてみました。
旧司法試験のように、法務省(司法試験管理委員会)が機械的に処理
するだけの試験(もちろん、試験委員が採点するのですが)と違って、
法科大学院において、学生の入学の諾否を決め、入学後は学生と対
面して単位認定・卒業認定するという「プロセス」を経ています。
いってみれば、法科大学院においては、こうした「プロセス」にかかわる
教授は
「偉大な将軍様(장군님)」
なのです。
すなわち、
1 学生が、単位認定や卒業認定(すなわち司法試験受験資格)を、
法科大学院側に「人質」として取られている。
ないし、法科大学院制度を批判しようものなら、そうした認定におい
て不利益を被るのではないかという恐怖感がある。
2 そうした雑音に付き合っていられず、勉強に専念したい。
だから、法科大学院について、学生側から表立った批判が出ない
のは当然なのです。
これは、
どんなに教育内容がおかしくても、苦情を言えば、単位認定というツー
ルによって、司法試験受験資格という「人質」を、いかようにでもできる可
能性があるということ、
また、実際そうでなくても、客観的に見てそういう虞を抱かせる体制に
なっていることを意味します。
だから、学生は、文句があっても、淡々と仕事(勉強)に精を出すしかない。
まさしく、北朝鮮のミニチュア版です。
これで、「実務法曹の養成」というのだから、恐れ入ります。
こういう事件もあったなあ。
学生にとっちゃ人生かかっている。高いカネと新卒資格と、大切な若い時
代の時間を使うわけだから。
「司法試験受験資格が人質」になっていることの弊害の一つでしょう。
ところで、法科大学院制度がマトモに機能するためには、
教授が、教育能力、評価能力という点で信頼のおける人物であること
が絶対に必要なのです。
(くわえて、法科大学院制度は「高潔な人格の陶冶がどうたら」とかを理
念に掲げていたので、そうだとすると、高潔な人格の持ち主であること
も重要だと思います。)
ところが、法科大学院は乱立され、教員は不足していました。
せめて、司法試験合格ないし法曹資格を持っている人物に限定するとか、
大学教授一本でもゼミで学生の指導をきちんとしてきた先生であるとか、
そういう先生のみに法科大学院の教員としての資格を持たせるのならまだ
しも、教える人を決めるにあたり、そういう基準は設けられていません。
つまり、
「偉大な将軍様(장군님)」
であるにもかかわらず、能力的な担保がされていないのです。
自動車免許を持っていないのに運転を教える。
医師免状を持っていないのに、手術の手法を教える。
他の、資格の世界では聞いたことがありません。
そういう人達が、学生の入学・単位認定・卒業すなわち司法試験受験資
格を付与するか否かの権限を握っているのです。
言論の自由が、単位認定という「人質」によって、圧殺される構造がそこ
にはあるといえます。
まだ「万世一系」という絶対的要件のあるホンモノの
「偉大な将軍様(장군님)」
のほうが、制度的にはマシなのかもしれません。