総司忌から思うことごと | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 例年、沖田総司の命日に因んで墓参の集いが催されるという。今年は第38回とのことだが、140年以上も前に亡くなった人だから、何回忌というのは3桁でなければおかしい。差し引き100回以上の法要をしなかったというように読めてしまう。

 本来、墓参は関係者がすべきものだ。私の感覚からすれば、その人物のファンは関係者のうちに入らない。かつて沖田総司の墓に詣でたファンのなかに墓石を削る不心得者がいたという。尊崇する人物の墓石に対して、どうしてそんなことが出来るのだろう? そうした連中は「墓参」といいながら、実は物見高いだけなんじゃないのか?

 私は声を大にしていう。

 墓は見世物じゃない。

 ところが、これまで総司忌に関わってきた連中のなかには、見世物だと思っている者がいた。墓参に来た人から一人2000円ずつの木戸銭をとったのだ。しかも幼児(2歳と4歳)の分まで含めて請求したというから呆れるほかない。

 この墓参料の徴収については、あさくらゆう氏のブログ記事を御参照願いたい。

 現地の寺院に問い合わせないように総司忌の主催者が訴えているのも、墓を見世物にして木戸銭を取っていたことに起因するのかと勘繰りたくなる。事前に同様の悪事が露見してしまったら寺院に開催を差し止められて商売あがったりということなのだろうか?

 故人とは無縁な者が、その人物に対して敬意を抱くなら、まずは、その人物の事蹟について誤りなく知るべきだ。そして、その人物が生きた時代についても学ぶべきなのだ。その人物に対して歪んだ幻想を抱く者は、墓参などすべきではない。

 その人物が如何なる足跡を歴史に残したか? それを調べ、誤りなく語り継ぐことこそ、その人物に対する供養になる。子孫を残さずに逝去した人物などは祭祀が途絶え、墓石すら残っていない場合もあるのだが、墓は残せずとも歴史は残せる。そして、誤りなく事蹟を語り継ぐことに資格は問われまい。たとえ故人とは赤の他人であっても、なんら問題はないのだ。

 墓参よりなにより、歴史を学べ。

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