弁護士で、ジャーナリストの日隅一雄さんが亡くなりました。49歳でした。

 訃報の記事は、朝日新聞にも掲載されました。

 日隅一雄さん(ひずみ・かずお=弁護士)が12日死去、49歳。通夜や葬儀は未定。
 産経新聞記者から弁護士に転身。報道被害問題に取り組み、NHK番組改変問題や、沖縄の核密約をめぐる情報公開訴訟の弁護団に加わった。東日本大震災後は東京電力や政府の記者会見に通い続けた。昨年5月に胆のうがんと宣告され、闘病しながら弁護士活動を続けていた。

 http://digital.asahi.com/articles/TKY201206120754.html

 私と日隅さんとの距離が近づいたのは、2年前です。Twitter上で、記者会見の開放を求める話題があり、白石草さんと飲み会をしようと設定したのです。すると、記者会見の開放運動について、関心のある人たちが多く参加してくれました。その中に日隅さんもいました。

 この会をきっかけに「記者会見・記者室の完全開放を求める会」ができました。このときに「求める会」のブログを作ろうとなり、メーリングリストも作ることになりました。ブログには以下のように書いてあります。

 昨日1月14日に、新宿で10人以上のジャーナリストやライター、メディア関係者、会社員などが集まり、記者会見のオープン化について議論を交わしました。その結果、以下のようなことが検討されました。この動きに、是非、多くの方にご参加いただければと思います。

(1)新聞協会・大手メディアへの申し入れ
◇1月18日(月)頃に文書を作成する
◇1月22日(金)くらいまでに賛同者を集める
◇1月29日(金)くらいまでに新聞協会や大手メディアに申し入れ
◇申し入れの様子などは全てビデオ取材をし、随時公開していく。

(2)各クラブへの個別アプローチ
◇それぞれのメディア・個人は引き続き、記者クラブにと交渉する
◇掲示版を作成し、各クラブの対応・状況などについて情報共有する
◇官邸クラブなど、オープン化を重点的に求めていく対象を決めて、
 集中的にアプローチすることも検討。

(3)情報の共有・発信
◇メーリングリストを作成し、情報を共有する
◇このブログなどを使い、記者クラブ関連の映像・情報を公開する。
◇3月頃にシンポジウム・イベントを企画し、実施していく。(未定)

現在、MLと掲示板は作成中です!
MLなどへのエントリーの希望者は、kisyakaiken@gmail.com またはツイッター #openkaiken にて

 http://kaikennow.blog110.fc2.com/blog-entry-1.html

 飲み会から始まった会が、徐々に大きくなっていきました。4月には「求める会」として記者会見をすることになったのです。私はこのとき、別の取材があり、会見には参加しませんでした。日隅さんは会見者として参加し、発言をしています。私が呼びかけた飲み会から始まった「求める会」ですが、私よりも日隅さんは積極的に参加し、発言を繰り返していました。

 いま改めてこのブログを読むと、「求める会」が記者会見の開放について積極的に動いていたことがわかります。

 2011年1月になると、総務省記者クラブで、フリーランスライター・畠山理仁さんが無断で動画中継をすることを強行したこともありました。このころ、自由報道協会(仮)が設立されます。ちなみに、私も日隅さんも第二次設立準備会のメンバーであり、二人とも第一次メンバーである渡部さんの誘いで入りました。

 ■第一次設立準備会(2011年1月27日以前)
上杉隆(暫定代表)、伊田浩之、岩上安身、江川紹子、小川裕夫、亀松太郎、島田健弘、神保哲生、田中龍作、寺澤有、七尾功、畠山理仁、村上隆保、渡部真 (以上14人)

■第二次設立準備会(2011年1月27日以降)
上杉隆(暫定代表)、伊田浩之、岩上安身、上垣喜寛、烏賀陽弘道、江川紹子、小川裕夫、上出義樹、亀松太郎、渋井哲也、島田健弘、白石草、神保哲生、田中龍作、寺澤有、中澤大樹、七尾功、西岡千史、畠山理仁、日隅一雄、村上隆保、渡部真 (以上22人)

 自由報道協会設立準備会メンバーでは会議をしてもなかなかまとまることがありませんでした。方向性の違いなどもあり、途中で抜ける人も出てきました。こうした過程の中で、私は「もう少し様子を見よう」的なスタンスで係っていました。日隅さんはというと、よく議決権は行使しない形、つまりオブザーバー参加という立場でいたい、という話をしていました。

 実際の手続き上、正会員だったのかはわかりません。しかし、自由報道協会の総会には来て、発言をしていたのは覚えています。日隅さんは会見開放運動に積極的だったことがよくわかります。ただ、なぜ彼が積極的だったのか?という源泉を直接聞くことができませんでした。それは残念です。

 私が日隅さんと会話をした最後は、

 「ぜひ、著書のことを含めて、インタビューさせてください」

 「いつもでいいですよ。メールをください。日程があえばいつでも」

 といったものだった記憶があります。この会話、いつだったかな。会話は覚えているのですが、どの場面かは記憶がないのです。また、そのメールをするのを忘れてしまっていました。たしか、私が岩手県釜石市の情報誌「Re-born」の手伝いに行く前だったと思います。そのため、東京に戻って来てからメールをしようと思っていたのです。結局、戻って来ても、メールをするタイミングを逸してしまいました。

 (続く)