近藤勇を降す 01 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

有馬純雄『維新史の片鱗』大正10 日本警察新聞社 より抜粋

 各軍既に豫定の地點に達して各勢揃へをなし、三月十四日一擧して江戶城を屠らんとしたが、西鄕、勝兩雄巧みに時局を解決し、四月十一日無事江戶城の授受を終つた、けれども會津桑名を中心とする幕兵は、依然官軍に抵抗を續け、兩毛の野に跳梁した、四月二日私は總督府に呼ばれた、
「宇都宮方面の情況が不明である上に、幕兵猶各所に出沒して居るから、其情況を偵察して來る樣出發に際しては江州彥根藩の兵隊を引卒して行け、尙自今東山道總督府副參謀に任じ、宇都宮方面出動中は、軍略一切御委任の事」
と云ふ愉快な命令ぢャ、卽ち彥根兵を率ゐて板橋を出發し、千住驛に到著した時、板垣退助の爲めに勝沼で敗られた、新撰組近藤勇の率ゐる一隊が、丁度流山へ向ひ當地を通過したと聞て、私は總身の血が湧き立ち返るを覺へた、此の時先鋒總督の御旗扱を勤めて居る、香川敬三(香川伯や私を參謀と書いてある書物があるソーだが夫れは間違いだ、私は參謀ではなく副參謀、香川は何でもないのだ)等は
「近藤は今流山に著いた計りで、丁度ゴタゴタして居るに違ひ無ひから、今夜夜襲をせよ」
などと、ワイワイ言って中々議論が八釜しかつた(何の用件で來て居たのか尋ぬる暇もなく別れたが、丁度其處に長州の祖式金八郞が來合せた(祖式は結城方面へ差向けられた筈だ)土佐の上田楠次(贈正五位)、南部靜太郞(現樞密顧問官甕男男爵)、水戶の平川和太郞名は光伸、判事、等の人々も總督府から來て居て香川と共に(南部早川は香川附屬、上田は斥候役)
「此機を逸せず夜襲せねばいかん」
と頻りと夜襲說を主張し、彥根の兵も贊成だつたが、私は地理敵狀の不明な處で、夜襲を行ふとの甚だ不利なるを知つて居るから、香川に向ひ
「成程議論には一理あるが、議論はどこまでも議論たるに過ぎない、殊に貴下は御旗扱であつて、戰の事には直接關係はない、私が軍略一切御委任と成つて居る以上、貴下等の議論に聽く義務は無い、私には副參謀として大に計策が有るのである、若し無責任の議論を爲して、私の計畫に妨害する樣のことある時は、其何人たるに論なく、直に軍 律に照して斬つて捨てるから、左樣心得なさい」
と、ひどい權幕をしたので、
「ナーニ、有馬の奴、近藤が恐いからアンナことをぬかすのだ畜生」
とか何とか囁く者さへ有つた、私は結果が巧く行つたから云ふのでは無いが、此時確かに胸中成算が有つた、私は近藤隊の退却地を聞くと同時に、卽ち千住から既に數組の密偵を流山に出して、敵情地形を知るに努めて居たのだが、計謀は密なるを貴ぶ、殊に軍事を知らね人には味方と雖もウツカリ口に出來ないから、香川などに向つて故意とひどく其說を退けた。
 それで香川以下一同皆な皆な寢て仕舞つたが、私は無論一睡も仕ない、足輕坂本十郞(谷山の者だつたと思ふが存否を調べて見たが分らない當年十九才美少年)を連れて、密偵の報吿を受けたり、哨兵を見廻つたりして居た、ソーすると敵の密偵が二人やつて來たから、引捕へて見ると、江戶へ行く者だとのことだつた、敵の密偵なるは分つて居たのだけれども、私が流山方面の事に氣が付かずに居る樣子だと云ふことを、此二人に依つて敵に知らせん爲めワザと空とぼけて通してやつた、是れを知つた香川などは、八釜しく騷いで居たが、私はまた叱り飛ばして置いた。

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