北別府学公式サイト運営チームです。いつも北別府学を応援いただきありがとうございます。昨日に引き続きインタビュー第2回目、今回はプロデビューから沢村賞獲得。その道のりについて語っていただきました。

それでは少し長いですがごゆっくりご覧ください。(^^)

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運営)
では、続いて北別府さんの19年間の現役生活を振り返ってみていただきたいのですが、北別府さんは1975年、カープが初優勝した年のドラフト1巡目で指名されたわけですが、その時の心境から聞かせてください。

北別府)はい。鹿児島に生まれた僕が、子どもの頃テレビで観ていた野球中継は、巨人戦がほとんどで、僕も巨人ファンでした。V9(1966年~1974年)を達成する、当時の巨人は、川上さんが監督で、長嶋さん、王さんがチームの主力。僕も、新聞など何も見ないでも、打線は一番から八番まで言えるぐらいの知識は持っていたんです。

そんな中で、宮崎・都城農高に進学した僕の夢は、とにかく甲子園に出場することでした。結果的に、甲子園出場の夢は叶わなかったんですが、プロから注目されている事も、そして自分がプロに入ることなど、当時は夢にも思いませんでした。

監督は、スカウトの方が練習を見に来ていた事は、知っていたみたいなんですけどね(笑) 九州・宮崎ですから、巨人やカープが当時はすでに春季キャンプを行っていたけど、全く自分の頭の中には、入っていなかったんです。

例えば、広島や福岡の人なら、地元にプロ野球のチームがあって、子どもの頃から身近に感じているでしょうから、「大きくなったら、プロ野球の選手になりたい…」と言った夢を抱くんでしょうけど、僕はなかったんです。だから、高校3年の夏の予選が終わって、これからの進路をどうしようか?大学進学を考え始めた時に、ドラフト1位でカープに指名された。しかも、その年のセ・リーグ優勝チームですからね。

一年前の1974年のドラフトでは、鹿児島実高の定岡正二さんが巨人へ、鹿児島商業の堂園喜義さんがカープへ、それぞれ指名されていたけど、宮崎の学校からドラフトで選ばれることは当時無かったので、指名された時は、本当に「えっ、僕がドラフト1位なの?」という驚きの方が、印象として残っています。

担当スカウトの宮川さんが、熱心に話をしてくれて、最後は、そこまで言ってくれるなら、とにかく3年間頑張って、ダメなら仕方ない。そう腹をくくったんです。

プロは、腕一本で生活していかなくちゃいけない。しかも僕は、甲子園は行っていないし、全国レベルがいったいどんなものなのか、分かりませんでしたから。九州では、速い球を投げる方だと言われていたけど…。プロに入ったら、とんでも無く、速い球を投げる人がいるんだろうな、と言う不安はありました。

運営)そうなんですね…。では、入団後は、どういった気持ちを持ったんですか? 殿堂入りの記者会見でも、入団当時のエピソードについて、「ブルペンで投げて、隣のピッチャーが投げる球を見て、全然スピードが違う。これはダメだ、と思った」とおっしゃっていますけど…。

北別府)春季キャンプは、3月の高校卒業式前に始まって、僕の気持ちのどこかに、まだ高校生のような甘えた気持ちがあったんでしょうね。

確か、キャンプの初日か二日目だと思うんですが、日南天福球場のブルペン、当時は外野のフェンスに即席で作った階段があったんですけど、そこを昇って、ブルペンを見た時に、優勝メンバーの外木場さん、池谷さん、佐伯さん、金城さん達が、バンバン投げているわけですよ。見た瞬間、「まぁ~、速いな~」というのが素直な印象です。

ブルペンの横からピッチングを見たからかもしれないけど、プロの世界は大変だ…と改めて思いましたね。

運営)入団された時の球種は、ストレートとカーブだけだったんですか? 持ち球でもあった、スライダーは入団後に、覚えたんでしょうか?

北別府)そうですね。ストレートは、速いと言っても、150キロ出ていたわけじゃなく、せいぜい140キロ出たか、出なかったか…という感じで。他には、縦に割れる緩いカーブがあったので、これが自分を助けてくれた一番の武器(ボール)だったでしょう。

後は、ナチュラルシュートですね。これは、実際に意識して曲げるものでは無かったので…。

入団して初めての春季キャンプが終わって、二軍が開幕した直後、当時の投手コーチの方から、「スライダーを覚えてみては?」と言われて、握り方を教えてもらったんです。便利な球種を教えてもらいましたね。投げる球に困ったら、スライダーを投げておけばいいだろう、そんな気軽な気持ちでした。すると今度は、左方向へ行くボールがあるなら、右方向(インサイド)へ行くボールがあった方がいいだろう…と言われて、しっかりとしたシュートを投げるようになったんです。

プロですから、少しでもボールが真ん中に入ったら、打つ技術を持った選手は、たくさんいるし、その頃から、インサイドや外へ逃げるスライダーを意識して、投げるようになったんです。

運営)なるほど…そうやって、球種を増やしていかれたんですね。

北別府)はい。そうやっている内に、二軍でも結果が出て、入団一年目に二軍で9勝。8月には、一軍昇格の話が届き、一度、足を捻挫して直ぐに二軍に降格したんですが、治して再度昇格。9月16日対ヤクルト戦(神宮球場)に、四番手投手として初登板したんです(1回1/3を投げ、被安打1)。10月2日対阪神戦(甲子園)でプロ初黒星を喫しましたが、12日対ヤクルト戦(神宮)で、初勝利。21日対ヤクルト戦(広島)でも先発して勝利投手になったんですが、投球回数は翌年新人王を狙うための配慮で、資格ギリギリの29回2/3で抑えてくれたんです。

しかし、二年目は当時の古葉監督が、一年間ローテーションを外さす、使ってくれたにも関わらず、成績は振るわず、新人王にも届きませんでした。でも、この成績は伴わなくても、直ぐに先発ローテーションを外す事を、古葉監督がしなかったことが、後々、僕の213勝に繋がってきたのでは?と僕は思いますね。

あそこで、もし先発ローテーションを外されていたら、2年目に33試合(22試合先発)も投げなかったら、僕の進化は無かっただろうし…僕の中で勝負の年と考えていた3年目に、10勝もできなかっただろうし…。本当に、3年目に2ケタ10勝できて、やっとプロの世界でやっていける、と自分で確信しました。

運営)そんな3年目で、プロでやっていける確信を得た北別府さんですが、その後順調に勝ち星を延ばして、7年目1982年に20勝をあげて沢村賞を受賞。そこから4年後の11年目1986年に、18勝をあげて2度目の沢村賞を受賞されるわけですが、2度目を獲れたのは、北別府さんご自身でなぜだと思われますか?

北別府)あの当時は、チームも強く、勝って当たり前。毎年、優勝争いをしている感じだったので、当時エースとして投げていた僕も、毎年2ケタ勝って当たり前、僕自身最低15勝するという気持ちで投げていました。1986年は、それまで、頻繁に出場していたオールスターゲーム(1979年~1982年出場)に、前半戦6勝という成績が響いて選ばれなくて、入団11年目にして初めて、オールスター休み期間中に、九州の実家に帰ったんです。それが、かえって自分にとってはいい気分転換になったのか、後半戦が始まると、前半戦の成績がまるで嘘みたいに、勝てるようになったんです。

ボールは、思った以上にスピードは出るし、自分が狙ったコースに投げると、きっちりそこへボールがいく。このボールで、ダブルプレーを取りたい、と思って投げると、その通りにダブルプレーが取れる。

味方打線が初回か2回に、1点取ってくれたら、「この試合は勝てる」と思うぐらい、自信がもてましたね。それで、後半戦は、12勝1敗ですからね。20勝をあげた年(1982年)でも、そこまでの自信は無かったですから…。

20勝の年は、若さ(25歳)で勝ったと言うのもありますが、ピッチャーは30歳前になると球のスピードも落ちてくるから、上手く変化球を使った技巧派に代わっていかないといけない。それで、僕も2度目の沢村賞を獲った1986年(29歳)は完成された投球ができたんだと思います。

運営)そういう意味では、やはり、夏に九州に旅行にいったというのが、北別府さんにとって、大きな転換期になったと言えるんですね。

北別府)そうですね。気分転換と言うか、メンタル面が大きかったと思います。