49days after | ジョイントツリー(joint tree)の『よおきたね』ブログ

49days after

最近、Facebookにもアメーバにも何も投稿して無かったが、
実は49日前に、義父を無くし、
途轍もない悲しみに襲われていた。

入退院を繰り返してた義父だったが、
数ヶ月前にはウチの押入れを修復してくれたり、
何度か女房の実家に行って一緒に飲んだり、
普段は本当に元気だった。

それだけに、
突然の知らせを聞いた時は、
「まさか⁈」という気持ちが拭えなかった。

あまりにも突然な死に、命の儚さを実感し、
義父の死に対する、
全く準備の無かった気持ちが、
暫くはフラフラと哀しみの中を彷徨ってた。

今までは歳を重ねるという事に嬉しさを感じてたが、
義父の死後、
歳を重ねるという事は、生まれによる仕方ない歳の差により、
人を失う悲しみを、これからも背負う事かなという考えに震えた。

女房と出会い、20年が過ぎ、
結婚15年に突入した昨日が結婚記念日で、
義父の49日。

正直、女房の親父をここまで愛する事が出来てる自分に
驚きすら覚える。

結婚の挨拶に行って、初めて義父に会った時は、
義父の迫力にビビっていた。
力強い大きな身体に鋭い瞳。
そして、口数が少ない。

その日、おれは出された酒をたらふく飲み、
緊張感も加わりベロベロになり
義父の前で睡魔に襲われ倒れるように眠った。

それからというもの、女房の実家に行く度、
俺が酔い潰れ、義父の側で眠るのが
何とも心地の良い場所であり、
心地の良い時間だった。

義父は酔うと明るいが、
普段は口数の少ない昔ながらの漢(おとこ)。

いつも俺を優しく支えてくれていた。

義父が吐血し倒れたと聞いた日、
女房と足早に病院に向かった。

先に到着していた義兄の話では、
俺たちが到着するまでに、
一度、鼓動が止まってたらしい。

義兄が医者に「残念ですが…」と言われ、
医者と病室に戻った時に、
義父は心音を自ら動かして復活し、医者と義兄を驚かせた。

とにかく、何事にも一生懸命な義父だったが、
最後まで頑張り続け、
俺たちの家族が全員揃うまで心臓を動かし、命を繋いでくれた。

義父が亡くなる前、
我が家の押入れで大工仕事をして貰った日、
俺は義父の好きなタンメンを作った。

義父のエネルギッシュな、
あまりの気持ちの良い食いっぷりに、
金では買えない幸せを感じた。

その時の義父の笑顔が素敵で、
俺の愛する女房と同じ笑顔に愛しさを覚え、その気持ちを伝えた。

人相は人の持つオリジナルなデザイン。
家族に対する親しみは、
その一族の持つデザインに愛着を感じる所から生まれる気がする。

それまで義父の笑顔に愛着を感じてはいたが、
特にこの日は、
女房の笑顔と義父の笑顔がリンクして、
義父に対する自分の気持ちを再確認し、
今まで過ごした時間の有り難みを実感した瞬間だった。

葬式の日は情けない程涙が止まらなかった。

参列者の中には若い人が沢山いた。
80近い義父の葬儀に、若い女性が涙を流す姿を沢山見た。

実際に義父が働く姿を見た事は無いが、
数年前まで、エネルギッシュに働いて、
若い部下に愛されていた父の姿を想像した。

火葬された義父の身体の一部である煙が、
ゆっくりと空に登り、風に溶けて行った。

通夜は雨が降ったが、葬式の日は快晴。

眩しい空の青の向こうに、義父が行くであろう天国を連想した。

母方の祖父が亡くなった日、
泣いてる母を見てると
今までに見た事の無い、母の中にいる少女の面影を感じたが、
今回、女房の泣き顔を見た時、それを思い出した。

女性にとって、父とは
生涯頼れる存在であり、
甘えられる存在。

その存在を失う哀しみは、
哀しみを内包した不安を纏う。

49日という時間が、多少哀しみを和らげてくれたが、
行き場の無い義父に対する愛情の矛先が段々と見えてくる。

これからは、義父の分まで女房を幸せにしようと。

義父の分まで、義母を大切にしようと。
義兄、義姉を大切にしたいと。

そして、自分の田舎の家族をいつまでも愛そうと。

義父を失い、今更ながら愛を感じる。

人生は金じゃ無く、人であると。

俺と出会った誰もを愛したいと。

PEACE。

ウチの押入れにて。
ドラえもん状態の義父とのツーショット。
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